「家庭礼拝の手がかり/ペテロの第2の説教(後半)」(小山哲司)

 ペテロとヨハネは、午後3時の祈りのために宮に出向いた時、「美しの門」のところに座って施しを求めている、生まれつき歩けない男を癒しました。

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って立たせると、歩けるようになったばかりか、飛び跳ねたりもしながら、ペテロたちについて歩くようになったのです。

 これを見て驚いた人々が、ペテロたちのいる「ソロモンの回廊」に集まって来ました。この大勢の人々を前にして、ペテロは、第2の説教を行います。

 集まった人々は、ペテロたちが、歩けなかった男に取り付いていた悪霊を祓う力を持っていると誤解していましたが、ペテロは、人々の視線を、自分たちではなく、イエスに向けさせます。

 彼らユダヤ人たちが十字架につけさせたイエスは、神が選ばれたしもべであり、イザヤ書に預言されているように、自分たちの担うべき苦難を身代わりに担われた方である。神は、イエスを死からよみ返らせ、このイエスの力によって、生まれつき歩けなかった男の足は、癒されたのだとします。

 人々が、無知の故にイエスを十字架にかけてしまったことは仕方がないことだったが、救い主を十字架にかけた罪は消えることはない。だから、悔い改めて神にたち返りなさい。そうすれば、罪が帳消しになるばかりか、神は、イエスを、再びこの世に送って下さると言って、人々に悔い改めを求めました。

 救い主としてのイエスが、イザヤの預言した苦難のしもべであることを明らかにした点と、イエスの再臨について述べた点が、五旬節に行われた第1の説教と違う点です。

 この前半部分に続いて、本日取り上げる後半部分に入って行きます。

 後半は、旧約聖書との関連で語られています。

 ここで大切なのは、神は、イスラエルを選ばれて、契約を結ばれたということです。契約を結ばれて、祝福を約束されたということが、繰り返し強調されています。

 旧約聖書は、大きく3つに分類されますが、その中心をなすものは律法です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記が、律法の書であって、モーセの五書と呼ばれています。ペテロは、申命記18章15節から、モーセの言葉を引用しています。

 ペテロの引用の元となった箇所を読んでみましょう。

 

あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。

それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。」(申命記18章15節~19節 新改訳)

 

 申命記の元々の意味は、モーセが神と人との間に立って、神の言葉を取り付いだように、モーセ以後の時代においても預言者が立てられて、神の言葉が語られるということでした。

 このモーセは、神との対話の中で、度々、契約という言葉を聞かされます。出エジプト記19章には、シナイ山で、モーセが神から十戒を授かる場面が描かれていますが、その直前に、神は、モーセに次のように語りかけます。

 

モーセは、神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界は、わたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべき言葉である。」(出エジプト記19章3節~6節  新改訳)

 

 ここで、神は、「わたしの契約」と語っていますが、この契約とは、どのような契約を指すのでしょうか?それは、神がアブラハムと結ばれた契約を指しますが、出エジプト記では、神は、その契約を思い起こしたとして、モーセに次のように語っています。

 

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。(出エジプト記6章3~5節  新改訳)

 

 こうして、神は、イスラエルを選んで契約を結び、律法を与え、預言者を起こして導いて行くことになります。

 そして、モーセ以後、数々の預言者が神の言葉を宣べ伝えてきました。ただ、モーセに匹敵し、それを凌駕するほどの預言者は、これまで現れて来なかった。ペテロは、それがイエスだとするのです。

 旧約聖書の中心は、律法ですが、もう一つの中心をなすのは、預言書です。イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書が重要な預言書ですが、ここで、ペテロは、預言者の代表として、サムエルの名前を挙げています。

 サムエルは、幅広い人物であり、預言者であると同時に、「さばきつかさ」としてイスラエルを指導しました。サムエルの功績として、最も重要なのは、サウルとダビデを導いて油注ぎを行い、王として擁立したことです。このダビデの子孫から、救い主が現れると信じられていました。

 ペテロは、サムエルをはじめとした預言者たちは、その預言を通して、終わりの日の到来と、救い主イエスについて語っているとします。

 ペテロは、最後にアブラハムの名前を挙げて、神がイスラエルの父祖と結ばれた契約を人々に思い起こさせています。イスラエルの歴史を遡り、父祖アブラハムと結ばれた契約にまで至るのです。神がアブラハムと結ばれた契約は、次のように記されています。この時、アブラハムは99歳で、まだ約束の子イサクは生まれていませんでした。

 

「わたしは全能の神である。

あなたはわたしの前を歩み、全きものであれ。

わたしは、わたしの契約を、

わたしとあなたとの間に立てる。

わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

(創世記17章1節~2節  新改訳)

 

 これは、永遠の契約であり、イスラエルに豊かさをもたらすものであるとして、神は、言葉を重ねて説明します。

 

「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

(創世記17章8節  新改訳)

 

 ペテロが説教の中で引用している箇所は、アブラハムが、神の命令により、イサクを神へのいけにえとして捧げる場面です。アブラハムが、神の命令に従って、正にイサクを屠ろうとした時、神は、アブラハムの信仰を見て、イサクの身代わりの羊を用意されました。この身代わりの羊は、イエスを暗示しています。

 

「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

(創世記22章16節~18節  新改訳)

 

 ペテロの説教の背後にある旧約聖書の主張を、申命記、出エジプト記、そして、創世記を取り上げて見てきましたが、そこで述べられていることは、神の選びと契約です。

 この世界に多数存在する民族の中から、神は、イスラエルを選ばれたということ。これは、イスラエルが優れているからではありません。神の一方的な選びです。そして、神は、このイスラエルと契約を結ばれたということ。この契約は、イスラエルに祝福をもたらすばかりか、イスラエルを通して、すべての国々に祝福をもたらすものです。このような神による選びと、神との契約という考え方が、イスラエルの人々の信仰の背後にはありました。

 契約には、契約を守る責任が伴いますが、イスラエルは、主なる神に背を向け、他の神々を崇めて契約を破り、神の裁きとして南北両王国が崩壊し、バビロンに捕囚されることになりました。数十年後に、エルサレムに帰還した後も、国家としての独立を回復することはありませんでした。

 神に選ばれた民であるという、強い選民意識があり、「カナンの全土を、イスラエルの永遠の所有として与える」という神の約束がありながら、彼らは、それとは裏腹の現実に直面していました。そして、救い主が来られて、こうした状況を打開してくれるものと信じていました。

 ペテロは、すべての国々、民族に祝福をもたらすのは、「あなたの子孫によって」であるとします。はっきりとは言いませんが、この子孫がイエスであることを暗示しています。

 救い主イエスは、苦難を担うしもべの姿をとってイスラエルに遣わされた。それは、神に選ばれたイスラエルの人々が、まず、救いにあずかり、神の祝福を受けるためなのだと言って、ペテロは、第2の説教を結んでいます。

 五旬節に語られた第1の説教は、イエスを十字架にかけたイスラエルの人々の罪を鋭く指摘して結ばれていますが、第2の説教は、悔い改めて、神に立ち返った後にもたらされる、祝福の豊かさが語られている点で、違いがあります。イエスの再臨に触れることで、人々の目を未来に向けさせ、神が約束された祝福にあずかるように誘っている点が、第2の説教の特徴と言えるでしょう。ペテロのそばに立つ、生まれつきの足の障害を癒された男は、神の祝福の豊かさを示すシンボルだったに違いありません。

 ペテロは、旧約聖書を引用しつつ、その世界に生きているイスラエルの人々に向けて語りましたが、「あなたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる」という契約の言葉は、神の祝福の普遍性を示すものです。旧約聖書の世界から遠く離れた、私たち日本人も、神の祝福にあずかることが約束されていることを感謝したいと思います。

 

 以上で、本日の私の話を終わります。