「家庭礼拝の手がかり/ペテロへの尋問」(小山哲司)

『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。そして、癒された人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。(新改訳)

 

 ペテロとヨハネは、午後3時の祈りのために宮に出向いた時、「美しの門」のところに座って施しを求めている、生まれつき歩けない男を癒しました。

 ペテロが「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って立たせると、歩けるようになったのです。

 これを見て驚いた大勢の人々を前にして、ペテロは、第2の説教を行います。

 彼らユダヤ人たちが十字架につけさせたイエスを、神は、死からよみ返らせ、このイエスの力によって、生まれつき歩けなかった男の足は、癒されたのだと説明します。

 救い主を十字架にかけた罪を悔い改めて、神にたち返りなさい。そうすれば、罪が帳消しになるばかりか、神は、イエスを、再びこの世に送って下さると言って、人々に、悔い改めを求めました。

 更に、ペテロは、旧約聖書を引用しつつ、人々に、神がイスラエルと結ばれた契約を思い起こさせ、すべての国々、民族に祝福をもたらすのは、イエスであることを示しています。

 救い主イエスがイスラエルに遣わされたのは、神に選ばれたイスラエルの人々が、まず、救いにあずかり、神の祝福を受けるためなのだと言って、ペテロは、第2の説教を結んでいます。

 そこに、祭司、宮の守衛長、サドカイ人らがやって来ます。彼らはみな、サドカイ派に属する人々でした。

 イスカリオテのユダと相談して、イエスを捕縛したのも彼らでした。ペテロとヨハネたちは、イエスと同じように、宮を支配するサドカイ派の人々に捕縛され、留置されることになりました。

 さて、一夜が明けて、サンへドリンと呼ばれる最高法院が開かれました。

 最高法院は、当時のユダヤの最高議決機関であり、宗教的問題、法律的問題、政治的問題などを討議し、議決していました。最高法院の構成メンバーは、71名からなり、民の指導者、長老、律法学者のほか、大祭司とその一族が含まれていました。議長を務めるのは、大祭司です。

 聖書は、具体的な名前を数名挙げています。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロです。大祭司アンナスとされていますが、アンナスが大祭司を務めていたのは、紀元6年から15年までで、既に引退していました。この時点で大祭司であったのは、アンナスの娘婿のカヤパですが、アンナスは、大きな影響力を保っていました。ヨハネは、写本によってはヨナタンと記されています。ヨナタンだとすると、アンナスの息子で、カヤパの後任の大祭司ということになります。アレクサンドロについては、分かっておりません。

 アンナス、カヤパ、ヨハネと、一つの家系から3人の大祭司が出ていることで分かるように、大祭司になる為には、有力な家系の出身であることが重要でした。大祭司を輩出するのは、4つほどの有力な家系に限られておりました。

 アンナスの強い影響力の下、カヤパによって主宰された最高法院は、イエスを十字架で処刑する道筋を付けた場でもあります。彼らがイエスを尋問した場面は、ルカによる福音書22章では、次のように描かれています。

 

夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出して、こう言った。「おまえがキリストなら、そうだと言え。」しかし、イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。だから今から後、人の子は、力ある神の右の座に着きます。」彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言う通り、わたしはそれです。」そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。

(ルカによる福音書22章66節~71節  新改訳) 

 

 ペテロたちが、宮で、生まれつき足に障害がある男を癒したのは、五旬節を過ぎて間がない頃でした。イエスの十字架から2ヶ月ほどの時期だったと思われます。ペテロたちに手をかけて捕縛した祭司や、守衛長、サドカイ人の中には、イエスを捕えるためにゲッセマネに出向いた者もいたことだろうと思います。最高法院の議長を務めるカヤパが、イエスを尋問し、今また、ペテロとヨハネの尋問を行うとしているのです。

 これは、ユダヤの旧来の体制側の力と、聖霊によって導かれた、新しい霊的共同体の力が、初めて正面からぶつかった場面だと言うことができます。イエスを十字架につけて亡き者とした、旧来の体制側の力が、生まれて間がない霊的共同体をも押し潰すことになるのかが、問われています。

 最高法院は、大祭司や祭司たちサドカイ派が多数を占めていましたが、パリサイ派の人々も、律法学者を通して参加していました。サドカイ派は、死者の復活、天使や霊の存在を否定していましたが、パリサイ派は、どちらも信じていましたし、やがて終わりの日に、神の審判が行われることも信じていました。

 サドカイ派としては、ペテロたちが、イエスの復活を宣べ伝えていたことを問題として取り上げたくても、復活を信じるパリサイ派の手前、それが出来ませんでした。旧来の体制側も、決して一枚岩という訳ではなく、相容れない信仰、考え方が共存した状態だったのです。

 そこで、カヤパらは、ペテロたちが行った癒しの行為を問題として取り上げました。「何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と。

 この尋問の背後には、罠が隠されていました。答え方によっては、旧約聖書の律法に違反する罪を問うことができたのです。申命記13章には、次のような規定が記されています。

 

あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。

(申命記13章1節~5節前半 新改訳)

 

  当時は、病気や障害は、悪霊が取り憑いた結果であると考えられていました。サドカイ派の人々は、ペテロたちが生まれつき歩けない男を癒したとすると、それは、その男に取り憑いていた悪霊よりも、もっと強力な悪霊の力で追い出したのだろう。宮の中で悪霊の力や名前を用いたり、もし、異国の神々の力に依り頼んだとすれば、それは、主なる神に対する冒涜であり、申命記の規定に対する重大な違反だと考えたのです。律法に対する違反の有無を問題とする限り、パリサイ派とも協調できると判断したものと思われます。

 ペテロたちが対峙している相手は、当時のユダヤの富と権力と頭脳の中枢を担い、イエスを十字架にかける道筋をつけた人々でした。ペテロの答えによっては、イエスと同じ目に遭うかも知れない場面です。

 イエスは、弟子たちが、やがてユダヤの体制側と衝突する日が来ることを知っており、そのことについて予め語っていました。ルカによる福音書21章には、次のように記されています。

 

それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。

(ルカによる福音書21章13節~15節  新改訳)

 

 イエスがこのように語った時点では、ペテロたちは分からなかったかも知れませんが、十字架と復活を経験した彼らは、「どんな人も対抗したり、反論したりできないことばと知恵」とは、イエスが十字架で死んだ後に復活したという事実に基づいて語ることであると理解していました。これは、動かしようのない事実であり、それに対する全ての反論を打ち砕く堅さ、強さを持っていました。

 聖霊に満たされたペテロは、皮肉を交えながら、切り返すようにして答えます。

 「『病人に対する良いわざ』のために、取り調べをするのか?」と。

 これは、取り調べを行うのは、犯罪が対象であり、良いわざを対象として取り調べを行うなど、不条理ではないかという皮肉であり反論です。

 それに次いで、今度は、尋問を受けているペテロたちが、最高法院の議員たちを糾弾するかのように訴えます。

「その人が何によって癒されたのかということなら、答えてやろう。あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることだ。」と。

 ペテロの糾弾は、まだ続き、旧約聖書から詩編118篇を引用します。

 

あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった。

(詩篇118篇22節)

 

 この詩篇の元々の意味は、周辺の異邦の国々から軽んじられ、捨てられたイスラエルが、神の導きによって栄光の座に就くことができる驚きと感謝を述べたものですが、ペテロは、それを、ユダヤの指導者たちがキリスト(救い主)であるイエスを捨てたこととして解釈し直しています。この解釈は、イエスから学んだものです。イエスは、悪い農夫のたとえ話の説明(ルカによる福音書20章17節)として、この詩篇を引用しています。

 また、ペテロは、自分が書いた手紙の中でも、この詩篇に触れて、次のように記しています。

 

 主のもとに来なさい。主は人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。

(ペテロによる第一の手紙 2章4節~5節 新改訳)

 

 イエスを捨てたのは、サドカイ派の祭司、大祭司たちです。そのイエスを信じ、イエスに倣うことによって、神に喜ばれる、本当の意味での聖なる祭司になるというペテロの逆説的な言葉からは、最高法院で彼らと対決した時の思いが感じ取れます。

 ペテロは、最後に、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と述べ、イエスの名は、病の癒しに留まることなく、人々を救いへと導く力があることを述べて、答弁を締めくくっています。

 権力側に捕縛され、尋問されながら、その機会を利用して、イエスの復活を証し、救い主を捨てた彼らの不法を訴えているのは、イエスが予告しておいた通りの展開だと言えるでしょう。

 最高法院の議員たちは、ペテロの答弁を聞き、彼らがイエスの弟子であることに気がつき、学校での教育を受けていない、普通の人、つまり、庶民であることに驚きました。専門家を前にして動じることなく、旧約聖書を適切に引用し、新しい解釈を施してみせるなど、只者ではないという印象を持っていたのです。

 神学大学の大学院を卒業し、立派な学位を持つ神学者や牧師を前にして、そうした教育や訓練を受けていない平信徒が議論を行うという場面を想像してみて下さい。普通ならば、一方的にやり込められ、論破されてしまうことでしょう。

 最高法院の議員たちも、つい先達て、神を冒涜した罪で処刑した、イエスという偽教師の名を使ったという点を指摘して、ペテロたちを追い込むこともできたかも知れません。

 しかし、そうはなりませんでした。癒された男が目の前に立っているのを見ては、返す言葉もなかったのです。

 事実が持つ重み、事実が持つ力は、それに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできない強さ、堅さを持つということが、この場面には示されていると思います。イエスに対する信仰は、この事実の上に成り立っています。だからこそ、度重なる迫害、弾圧を受けても、それに負けることのない力を持っていたのです。

 

 以上で、本日の私の話を終わります。