「家庭礼拝の手がかり/弟子たちの祈り」(小山哲司)

主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。(新改訳)

 

 ペテロとヨハネは、宮に出向いた時、生まれつき歩けない男を癒し、これを見て驚いた大勢の人々を前にして、ペテロは、第2の説教を行います。

 ペテロは、人々に対し、救い主を十字架にかけた罪を悔い改めて救いにあずかり、神の祝福を受けるように求めました。

 そこに、祭司、宮の守衛長、サドカイ人らがやって来て捕らえられ、ペテロとヨハネたちは、一晩留置されることになりました。

 さて、一夜が明けて、サンへドリンと呼ばれる最高法院が開かれました。構成メンバーには、民の指導者、長老、律法学者のほか、大祭司とその一族が含まれていました。議長を務めるのは、大祭司カヤパです

 カヤパらは、ペテロたちが行った癒やしの行為を問題として取り上げました。「何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と。

 聖霊に満たされたペテロは、糾弾するかのように答えます。

「その人が何によって癒されたのかということなら、答えよう。あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることだ。」と。

 大胆に語るペテロの側には、足の障害を癒された男が立っており、この状況が持つ意味を理解し始めた彼らは、ペテロたちを退出させた上で、この問題の処理策を協議し始めます。

 最高法院は、ユダヤの最高議決機関でしたが、民衆の意向に対して大変敏感であり、暴動を起こさせないために細心の注意を払っていました。

 彼らは、癒しの奇跡に、律法に反する問題点がなかったため、「イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならない」と命じることしか出来ませんでした。

 最高法院の命令に対して、ペテロとヨハネは、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断して欲しい。」「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいかない。」と言って、明確に拒否します。

 最高法院は、自分たちの命令が、拒否されたのにも関わらず、ペテロたちを釈放せざるを得ませんでした。癒しの奇跡を見た民衆が、そのことで神を崇めていたからです。

 釈放されたペテロたちは、仲間の弟子たちのもとに行き、最高法院で尋問を受けた一部始終を、残らず報告しました。

 報告を聞いた仲間たちには、二つの思いが芽生えたと思われます。

 一つは、ペテロたちが、最高法院で何の処罰を受けることもなく釈放されたことへの感謝です。イエスが、最高法院で有罪とされ、十字架につけられてから、まだ二ヶ月しか経っていません。ペテロたちが、何の処罰を受けることもなく釈放されたのは、驚きであり感謝すべきことでした。

 もう一つは、最高法院が、イエスの名によって語ること、教えることを禁じたことに対する落胆です。ペテロたちが、こうした脅しを拒否したとはいえ、イエスを救い主として宣べ伝えることは、最高法院を敵に回すことになります。今回は処罰されることなく釈放されても、次回はどうなるか分かりません。

 感謝と落胆という、相反する二つの感情の中で、彼らの心は揺れ動いたものと思われます。

 誕生したばかりの霊的共同体の特徴は、祈りによって結ばれた共同体であったことです。彼らは「いつも心を一つにして(1章14節)」祈っていました。揺れ動く心を抱えながら、彼らは口々に祈り始めました。無事に釈放されたことへの感謝が祈られ、最高法院の脅しからの助けが祈られたと思われます。やがて、口々に祈られていた祈りが、一つのまとまった形になっていきます。

 彼らは、神に向かって呼びかけますが、「主よ」と呼びかける言葉に、先ず注目したいと思います。ここでは、一般的に「主人」を表す「キュリオス」ではなく、「デスポテース」というギリシャ語が使われています。「デスポテース」は、最高の主権者を意味する言葉であり、王の中の王という存在を表しています。最高法院の議員を圧倒する存在が、自分たちの主であるという信仰の表れです。

 最高の主権者である主は、天地万物の造り主であると述べられていますが、これは、創世記1章の信仰です。そして、文言としては、詩篇146篇から引用されています。この詩篇では、天地の造り主にして主権者である神と、やがて土に帰る人間とが対比されています。3節から8節前半までを見てみましょう。

  

君主たちにたよってはならない。

救いのない人間の子に。

霊が出て行くと、人はおのれの土に帰り、

その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。

幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、

その神、主に望みを置く者は。

主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。

とこしえまでも真実を守り、

しいたげられる者のためにさばきを行い、

飢えた者にパンを与える方。

主は捕われ人を解放される。

主は目の見えない者の目をあけ、

主はかがんでいる者を起こされる。

(詩篇146篇6~8節前半  新改訳)

 

 人間は、たとえどれほど身分が高く、富と権力を持っていたとしても、死ねば土に帰ることになります。今、絶大な力を振るっていても、明日は、土に還って、彼のもろもろの計画は滅びうせることになるかもしれません。それは、最高法院の議員であろうと、大祭司であろうと同じことです。

 一方、造り主なる神は、「とこしえまでも真実を守り、しいたげられる者のためにさばきを行い、飢えた者にパンを与える方」であり、「捕われ人を解放」されます。これは、文字通りに捕虜を解放するだけではなく、悩みに捕われた者、罪に捕われた者の解放をも意味しています。造り主なる神は、いのちの根源ですから、その力が現れる時、目の見えない者の目は開かれ、かがんでいる者は起こされるのです。こうしたことは、イエスの宣教の中で実現されましたし、ペテロが生まれつき歩けない男を癒したのも、神の力の現れでした。

 このように、最高の主権者である神に呼びかけた弟子たちは、次に詩篇第2篇1~2節の言葉を引用して祈ります。

 この第2篇は、ダビデ王朝で、王の即位の時に読まれたものとされ、王が救い主(メシア)として描かれています。

 

なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、

もろもろの国民はむなしいことを企むのか。

地の王たちは立ち構え、

君主たちは相ともに集まるのか、

主と、主に油注がれた者に対して。

 

 この引用部分に示されているように、新しい王が即位するときは、イスラエルの周辺諸国で、新しい王を拒む勢力が台頭し、戦いの準備がなされ、様々な策略がめぐらされました。新しい王の即位は、そうした危機的な状況の中で行われたのです。

 弟子たちが引用して祈った部分には続きがあります。4節と7節を見てみましょう。

 

天の御座に着いておられる方は笑い、

主はその者どもをあざけられる。(4節) 

 

 神は、新しい王の即位を阻もうとする、この世の権力者たちの姿を見て、あざけり笑われるといいます。先ほど言いましたように、霊が出て行くと、彼らの計画は、その日のうちに滅びうせるからです。彼らが、どんな計略を練って新しい王の即位を阻んでも、神の計画は変わることがなく、神ご自身が、王をエルサレムにお立てになるのです。

 神によって立てられ、王としての権威を与えられた者は、次のように告白します。

 

「わたしは主の定めについて語ろう。

主はわたしに言われた。

『あなたは、わたしの子。

きょう、わたしがあなたを生んだ。』」(7節) 

 

 この言葉は、神がお立てになり、王としての権威を与えられた者は、神とは、単なる主従の関係ではなく、親と子の関係であることを示しています。子である以上は、親の性質を受け継ぎます。人間の子どもが人間であるように、神の子は、神の性質を持つのです。

 こうして、新しい王の即位の際に読まれてきた詩篇ですが、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国も滅んで、王のいない時代になると、この詩篇は、来るべき救い主についての預言として読まれるようになりました。神に立てられ、神の性質を持つ、王としての救い主の到来を告げ知らせる預言です。

 実は、この詩篇第2篇の言葉は、そのままの形で、或いは、少し形を変えつつ、新約聖書の中で何度も繰り返されています。

 先ず、福音書に登場します。ルカによる福音書3章21~22節を見てみましょう。

 

さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(新改訳)

 

「今日、わたしがあなたを生んだ」という部分が、「わたしはあなたを喜ぶ」とされていますが、詩篇の言葉に基いています。イエスの宣教の始まりは、神に権威を与えられた救い主として、即位することから始まったと言えます。

 パウロは、この詩篇の言葉を、イエスの復活と結びつけて解釈しています。使徒行伝13章33節を見てみましょう。

 

神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、

「あなたはわたしの子。

わたしが今日、あなたを生んだ」

と書かれているとおりです。(新改訳)

 

 福音書は、詩篇第2篇をイエスのバプテスマと結びつけ、パウロは、イエスの復活と結びつけていますが、いずれも、イエスが、神によって立てられた王としての救い主であることを表しています。

 イエスが神に立てられた王であるならば、ヘロデやポンティオ・ピラトは、それに敵対する地の王や君主たちに当たります。弟子たちは、そのようになぞらえて、この詩篇を読み、祈ったのです。たとえ、彼らが救い主イエスにどれほど敵対しようとも、神はそれをご覧になってお笑いになることだろう、と。

 ここで、もう一つ大事なことがあります。弟子たちの祈りの中で、イエスのことが、「聖なるしもべイエス」とされていることです。27節と30節に、2度使われています。

 この「聖なるしもべ」とは、イザヤ書52章13節から53章12節までの「苦難のしもべ」を指しています。ペテロの第2の説教の中でも、イエスが「しもべ」であるとされました。私たちの身代わりとして、私たちの罪を担って苦難を受けるしもべが、救い主の姿であるとしたことには、それまでのユダヤ教にはない新しさがありました。

 ですから、弟子たちの祈りの中には、救い主の二つの面が示されていることになります。神によって立てられ、権威を与えられた王としての姿と、人々からさげすまれ、のけ者にされつつ、私たちの罪を担って苦難を受けるしもべの姿。この両極の姿が、イエスの中で一つに結び合うのです。「苦難のしもべ」としての救い主の預言は、イエスの十字架で実現され、王としての救い主の預言は、パウロによれば、イエスの復活によって実現されました。

 弟子たちが、イエスのように苦難を味わうことを予期しつつ、イエスの復活のいのちに与かることを信じて祈り求めたことは、「あなたのみことばを大胆に語らせてください」ということ。そして、「あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください」ということでした。みことばの宣教と、その助けとしての癒やしとしるしと不思議の実践です。

 これは、最高法院の下した「イエスの名によって語るな、教えるな」という命令の逆をいくもので、弟子たちの側から最高法院に挑戦状を叩きつけたものと言えます。

 こうして、弟子たちが心を一つにして祈っていると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り始めました。あたかも、五旬節の時に聖霊が降り、様々な国の言葉で語り出した時と同じ様に。

 イエスは、昇天される際に、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と言い残されましたが、その言葉の通り、聖霊は、私たちにイエスのみことばを宣べ伝える力と勇気を与えてくれるのです。

 

 以上で、本日の私の話を終わります。