「家庭礼拝の手がかり/亡き兄の信仰」(桜井五郎)

現在では戦災の焼跡に、キリスト教関係の小さな事務所らしいものが一棟建てられてある様です。

 いまも忘れる事の出来ないのは、その寄宿舎の一部屋に掲げられたイエスの絵で、茨の冠をかむり、いかにも憂に沈んだその姿は、未信の私にも印象的にうつりました。

その様な環境で、兄は礼拝に加わり、日曜学校を助け、クリスマスの集りなどもしていたということを私はあとで知ったのでした。

 夏休みに帰省した時など、兄はよく離れ家の一室で黙々として聖書を勉強していました。兄の遺した旧新約聖書や英和新約聖書は、殆どどの頁も赤線が引かれてあります。しかし熱心に聖書を読み、寄宿舎では福音のあかしをした兄も、家族に対しては、特にキリスト教のことは語りませんでした。家族としても格別に関心は示さず、といって無理解だったわけでもなかったでしょうが、兄としては、家族よりも他に切迫した使命を負わされていたのかも知れません。

 この様なわけで、私自身も兄の信仰を語りつぐ資格はないのですが、兄の遺した聖書について見ますと、その信仰の一面が分る様に思われます。兄は理科系の為に専門書もありますが、それにも増して兄が集めた多くのキリスト教関係の書籍は、無教会の信仰を中心としていたものの様に思われるのです。と申しても、それは私が信仰を与えられてから、少しずつ分って来たものであって、当時は兄の蔵書もあまり関心の的ではありませんでした。

 それが今では私の本棚にも何冊かが並び、私の勉強を助けてくれています。数巻の内村全集、黒崎先生の新約注解や希和索引、ヒルティ宗教論文集、その他のものすべて、私の為に兄が準備してくれた様なものであります。私は時折帰省しては、兄の本棚の前に座り、この様な本もあったのか、これも読んでいたのかといって、その度毎に眼をひらかれております。

 兄は卒業後僅かの間地方の軍需工場に勤務し、結婚もしない内に、航空通信兵として応召し、三十二才の短かい生涯を終えたのでした。ですからこの世的には目立った仕事も出来ずに召されて行った一人でありましょう。また兄の入信の動機等については記録も残されているわけでもなく、知る由もありませんが、それだけに不思議な事として私は何とかしてしらべて見ようとも考えております。筑波山の南の一寒村に生まれた兄が、上京して僅かの間にキリストの福音に接したということは奇蹟的のことの様に思われます。しかもその兄から聖書や福音について直接聞くこともなく、兄の聖書を読む姿だけしか知らなかった私が、兄の死後十年近く経ってから兄の信じたキリスト教へ、それも教会を通してでなく、始めから無教会の信仰に導かれたのは、当然かも知れないが、何といっても兄の無言の霊による招きがあったからだと思います。

 私の入信の動機については、いま多くを語るいとまを持ちませんが、長らく聖書を読み度いという意欲を実限出来ないでいたものが、ある時仕事上の不安感から聖書に救いを求めようという気になり、ひとりで読み始めたのでした。その様なさまよいの中にも、他へ走らず聖書に眼を向ける道を選ぶことが出来たのは、少年の頃兄の聖書に対する非常に熱心敬虔な態度にふれていたからに外ならないと思います。

 兄の聖書勉強は私が救われる為にも必要だったのだと思います。そこに神の偉大な摂理の示されていることを私は信じます。

 隠れたところに働き給う神のみわざを証しし、救われた者としての感謝を捧げ度く、福音を信じて召された一人の兄の生涯を短く綴りました。

 「今いまし、昔いまし、やがて来たるべき全能者」に御栄えあれと祈ります。

 

(昭三四・九・五)