「家庭礼拝の手がかり/水戸無教会と私」(桜井五郎)

しかし聖書は難かしく、独習による理解には限度があると思われたので、出来れば聖書研究会の様なものに出席して指導を受け度いと考えていたのであった。このため教会の門をくぐろうとしたことも何度かあった。その様なさまよいを続けていた時、私は偶然の機会に前記の座談会が行われることを知り、これに出席したのであった。

 座談会が終わってから二三の者が残り、水戸でも聖書研究の集まりを持とうではないかということになり、それ以来「水戸無教会」の名で集まりが続けられているわけである。

 当時全くの初心者であった私が、その申合せの席につらなっていたということについては、神様の導きによったのだと信じている。聖書と取り組んで一年ばかりの間に、何とか集会に参加し度いと願っていた事が、こうして叶えられたのであった。この一事を以てしても、私は水戸無教会の名を忘れることは出来ない。まことに座談会の席上で矢内原先生が仰せられた「求めよ、さらば与えられん」との御言葉が、そのまゝ私の信仰体験として印象深く記憶に残ったのである。

 その後二か月程して東京へ転勤のため、水戸の集会とは暫らく別れることとなった。東京では丸の内の塚本虎二先生の集会に通った。そして時折水戸無教会の集まりに参加しては、教友の愛に囲まれて共に信仰を励まし合った。丸の内の集会とは比すべくもないささやかな存在の集まりであっても、丸の内とはまた異なった家庭的な雰囲気に浸って、私は言いつくし難い感動と喜びを覚えるのであった。

 東京在勤二年の後、日立へ転勤となった。それからも暫らくは、丸の内へ通う事が続いたが、聖書研究のためとはいえ、月に何度か「東京に行く」ということが、未信の職場の友だちに対して不必要な刺激を与えることに気付いたので、私は間もなく東京通いを思い止まった。

 しかし日立では信仰を同じくする無教会の集まりもなく、といって自ら集会を開く力も与えられず、結局日立から水戸まで汽車とバスで一時間程の道のりを、水戸無教会の集まりに参加のため通うこととした。これには先ず家族からの強い反対や、友だち知己などから「何のために水戸へ通うのか」といった嘲けりに似た目で見られる思いで、「福音を恥とする」程の煩いを感じさせられた。それに多少の経済的負担も考えないわけではなかった。けれど水戸無教会の力は強く私をとらえて離さなかった。聖日を守るというその事のためにも、しっかりとこのエクレシヤにつらなる以外すべはなかった。

 この様にしておよそ二年半近く日立から水戸通いを続けた。その中に、日立に住みながら、福音の斗いのためとはいえ、水戸に通うことによって、日立の地に対する愛情のうすれゆくことに気付き、自分自身はっとすることがあった。少しは日立の人々とも親しむべきではなかったのか。イエスの愛を以て交われば、聖書の勉強は進むことおそくとも、神様の御旨にかなうことにはなるのではないか。そう考えて、残り少ないであろう日立に少しでも馴染みながら、出来れば福音の種を蒔こうと私かに決心した。そして永らくの水戸通いを急に思い止まった。教友たちにも多くを語らず、いや当時の私にとっては、何とも表現出来ない気持ちのまゝ、しばらく日立に落ちつこうと考えたのである。

 ところが神様は、私に対して何をなさしめようとされるのであろうか。日立へとどまることその後僅か三ヶ月程して、再び転勤ということで水戸の地に連れ戻されてしまったのである。だから伝道集会などとは思いもよらず、ついに日立には親しむことの薄いままに去らざるを得なかったのである。

 

 水戸無教会は私にこの様な不思議な体験を与えて下さった。この世的には転勤ということを動機として水戸無教会に出入りしたが、霊的にはいつもこの集まりによって支えられた。こんな表現が許されるならば、既に発足の当初から水戸無教会は「私のために」神様が用意して下さったものであると私は信じ度いのである。この集まりにつらなることによって自分がどのようにあやつられようとも、「ふたりまたは三人が、私の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書十八の二〇)と仰せられたイエスの御言葉の通り、いつもイエスがいて下さるこの日曜日の集まりに加わることが、私にとっては、文字通り魂の安息となっているのである。