「家庭礼拝の手がかり/祈り」(大森孝夫)

「祈り」第1回

大森孝夫

 

「余は信じて救わるるのみならず、亦信ぜしめられて救わるるもの也。此に於てか余は、全く余を救うの力なきものなるを悟れり。然れば余は何をなさんか、余は余の信仰をも神より求むるのみ。キリスト信徒は絶え間なく祈るべきなり。然り彼の生命は祈祷なり。彼尚ほ不完全なれば祈るべきなり、彼尚ほ信足らざれば祈るべきなり、彼能く祈り能わざれば祈るべきなり。恵まるるも祈るべし。のろわるるも祈るべし。天の高きに上げらるるも、陰府の低きに下げらるるも、我は祈らん。力なき我、わが能うることは祈ることのみ。」

 

 右は内村先生の文章「求安録」中の一節でありますが、まことに「祈り」こそはキリスト者の生命であり、キリスト者の生活とは「祈り」の生活であると信じます。「エホバ与え、エホバ取り給う。エホバの御名は讃むべきかな。」すべて神に祈り、よらなければ何事も為し得ないのであり、祈りなき者には信仰も希望も愛も何一つ与えられないのであります。これからキリスト者たる私は「祈り」について祈りつつ学んで参りたいと思いますが、このことは「祈り」を自己の知識欲から神学的に探求したり、心理学的に分析しようとするものではありません。かかる事は私の能力以上のことでありますし第一、キリスト者の生命にして神との活ける交わりである「祈り」が学問的に説明されようはずは絶対にないからであります。私は神の御名を崇め、神に絶対信頼せんが為に、またイエス・キリストの来り給わんことを乞い願わんがために「祈り」の道を学ばんとするのであります。更に重ねて私は、私自身がキリスト者としての日浅く、肉の誘惑に陥り自己中心主義化する薄信の身であるがゆえに「祈り」の道を心をこめて学びたいと思うのであります。実に「祈り」なき私は死であり虚無と化してしまうのであります。では一体「祈り」とは何であるか、簡単、明確に示せとの質問に対しては私の現在の信仰は神えの「叫び」であると答えます。その叫びとは赤ん坊が母を慕ってなく「叫び」と同じであります。私は再び求安録を取上げてその最終頁を開いてみましょう。そこには次の英文が記されてあります。

 

“But what am I ?

An infant crying in the night :

An infant crying for the light :

And no language but a cry”

 

然らばわれは何なるか、

夜暗くして泣く赤児、

光欲しさに泣く赤児、

泣くより外に言葉なし。

 

  更に引用が多すぎるかもしれませんが、私の特愛の詩である八木重吉氏の詩を一つ掲げてみたいと思います

 

さて

赤ん坊は

なぜにあんあんあんあんなくのだろうか。

ほんとに

うるせいよ

あんあん  あんあん

あんあん  あんあん

うるさかないよ

うるさかないよ

よんでいるんだよ

かみさまをよんでいるんだよ

みんなもよびな

あんなにしつこくよびな

 

 私には「祈り」とはこの「赤ん坊の泣き叫び」の如く全身全霊をあげて天に在ます父なる神を呼び求めることであろうと信じます。

  神学的講釈はいざしらず、信仰上の幼児たる私の「祈り」とは「泣き叫び」であり、父なる神に対し、肉に弱き私は泣くよりほかに言葉を知らないものなのであります。

(続く)

 

「祈り」第2回

大森孝夫

 

「主よ、祈ることを我らに教へ給へ」(ルカ十一ノ一)

 

 私は前回において肉に弱き私の「祈り」とは、「わが罪許し給え」と全身全霊をあげて天に在す父なる神を呼び求め、その御前にうち伏して泣く、その「叫び」声であると告白いたしました。しかし私の「祈り」は常に神の御旨にかなう眞の「祈り」でありましょうか。私はかく考えるとき、強く強く恐れおののかざるを得ないのであります。たしかに「祈り」とは活ける神との交りであり、神えの言葉ではありますが、神の御心をかえりみることなしには絶対に、神と交る事はで来ないのだと信じます。「祈り」、生ける神との交り、それなくしては私たちの存在はあり得ません。従って私たちキリスト者は「神の御旨にかない、神の聴き入れ給う眞の「祈り」に就いて、命がけで学ぶと共に、「教へ給へ」と心をこめて祈り求めなければならないのであります。以下私は、このまことの「祈り」を学ぶべく筆を進めて参りたいと存じますが、この際第一につき当るべき問題は如何にして眞の「祈り」は学ぶことができるかと言う点であります。このために私たちは教会え通って牧師の説教を聞かなければ駄目でありましょうか。また大冊の神学書をひもとかなければ不可能でありましょうか。いや、いや、私たちは絶対にかかるものに迷う必要はないのであります。私たちキリスト者は全身全霊をあげて主イエス・キリストに学び、祈り求めればそれで完全なのであります。なぜならキリスト教はイエス・キリストであり、私たちキリスト者はイエス・キリストの僕であり、私たちはただイエス・キリストを信ずることによってのみ生きることを与えられているからであります。そして私たちはイエス・キリストによってのみ眞理の何たるかを知り得るのでありまして、「祈りの本質」とは「キリスト者の祈り」であり、「キリスト者の祈り」とはイエス・キリストの「祈り」と生活とに根源していることを深く深く信じているからであります。さて、信仰もて福音書を学ぶとき、私たちは如何にイエス・キリストが「祈りの人」であられたかに心を強く、強く打たれずにはおられないのであります。ヨルダン川にてバプテスマを受けられたとき、ガリラヤ伝道のとき、十二使徒を選ばれたとき、奇蹟を示されたとき、またヘルモン山上に、ゲッセマネの園に、遂には十字架上にと常に「祈り」を続けられたのであります。実にイエスにとっては祈ることは生きることであり、生きることは祈ることであられたのであります。