「家庭礼拝の手がかり/キリストを信ずるまで」(小貫武壽)

キリストを信ずるまで 第一回

小貫武壽

 

 私の家は商家であり、、言わばソロバンの中に生まれソロバンの中に育ったとも云えるでしょうか。

 父母は、どちらかと云うと佛教・神道何でもよくご利やくのあるものならば何でも良い。兎に角、家内安全・商売繁盛を常に祈ると云った、ごく普通の善良な小市民と云う所ですか。

 たゞ私も子供心に尊崇の念を持ったのは、祖母であって、この祖母は、もう亡くなったが、正しく生きる者は神様が必ず護って下さると信じて、しばしば熱心に祈祷を捧げ、あらゆる神に願をかけては、生ぐさものを断って忍耐し、念佛などをとなえ、家内の安全を祈って居たのです。子供心にも大変だなと思いながらもその熱心さと真面目さには打たれたのでした。

 私が人生問題を考え始めたのは、旧制中学三年頃、丁度戦争もはげしくなって来た頃でした。だから思想も、軍国主義、国家主義の思想をたゝき込まれ、国家の為に一命を捧げることが、最高の美徳であるような気持になって、しからばどうして之のような気持ちになれるか、どうしたらそれを心から受け入れることができるか、と云うことでそのより所を求めた結果、友人のすゝめにより、或る国史学の先生に教えを乞うたものでしたが、何かこじつけ見たいで、納得できないで居りました。

 そのうち戦局は日を追って、我方に不利となり、内地も、空襲、艦砲射撃を受けるに及び、遂に終戦の玉音放送となったのです。之で、今迄より所を求めて来た国史観はご破算となり、全く心の中は空になって了いました。命が助かったと云う安心感はあったけれども、我は何処へ行く、精神的にはかえって不安定な状態になって了ったわけです。

 しかし、何時迄もボンヤリしては居れません。目の前には空襲でむざんにも焼土と化した自分達の家があるばかりです。兎も角もシャベルと荷車によって焼跡を整理して、復興に取りかゝらねばなりませんでした。現実に食べるための営みが待っていたのです。働きました。労働しました。畠も作っていもを作ったり致しました。丁度その頃、中学の国語の教科書にあった〝デンマークの話〟を思い出しました。一人の青年が、国家危急の時、一つのことを思い立ち、荒土が化して沃野となったと云う話であるが、丁度日本も同じ様な立場であり、何か共感を呼んだのでした。奇しくも之が内村先生の著書であったことは、全く面白い。

 其の後、うちで店を作って商売をすることになり、その手伝いを始めた。しかし、いくら売れても儲かっても、私の心は空虚であった。仕事そのものはやり甲斐があって忙しかった。其処には或種の意義もあるには相違なかった。しかし、所せん、商売とは金儲けであるとしか思われなかった。だからむしろ戦争中の〝一命を国に捧げる〟と云う純粋な気持が何か懐しく思われてならず、自分の商人として生きる道はあるのかないのか、外に何か求めるものがあるのか、仕事と家を離れて静かに考える機会が欲しいと切に思われてならなかった。

 そのうち、まる二年経った頃から体が疲れ易くなり、とうとうその夏、胸を病んでしまった。丁度仕事を離れたいと思っていた矢先なので、私は内心喜んだのでした。

   そして療養生活が始まったのです。

 所が意外に病気がこじれてしまい、始めに考えて居たように半年や一年ではよくなりそうもないような状態になってしまい、先行に不安がつきまとい始ったのです。今考えればノイローゼになったのでしょうか。夜はなかなか寝つかれず、いろいろとくだらないことをぐるぐる考え廻らし、どうにもならない自分を省みて自己嫌悪に陥り、すっかり先の希望を失って、毎日毎日悩み苦しんだのでした。当時二十一才、あたら青春の時を病の床に送らねばならぬ身の不幸を思うと、どうにもならぬ焦りと苦痛を感じ七転八倒の苦しみを致しました。

 そのうちに両親も心配して、とうとう療養所行きとなり、晴嵐荘え入ったわけです。入荘して見ると意外に病状が軽いので、今迄の苦しみや、心配は少しオーバーだったことが判り、ずっと楽にはなったけれども、やはり悩みはなかなか解決しませんでした。自分で自分を制することが出来ず、安静時間の一時間も本当にじっとしていることが出来ないような自分にあいそをつかしたりしていました。

 その頃、荘内に聖書研究会なるものがありました。今迄は、私の家も、私自身もキリスト教は余りよく思って居りませんでしたので、普通だったら、出席しようなどとは思わなかったでしょうが、何か得られれば、と考え、丁度友達があったので、その者と一緒に出て見ることにした。

 当時は牧師さんが毎週来たり、患者や患者出身の伝導師さんなどや、患者さんの中から一人二人出て説教や感話、聖書研究等を続けて居りました。

 

キリストを信ずるまで 第二回

 

 当時、晴嵐荘の聖書研究会には、週に一度づゝ牧師が来て伝道して居った。特に心をひかれたのは、牧師さんの説教よりも、患者さんの聖書研究発表であった。今はなくなって居ないけれども、K君の話などは、此の人は神学校を出た人なのかしら、と思う程、くわしく研究して居られたのであった。

 だが、最初は牧師さんの話の方が、身近かで具体的で実生活には為になるように思われた。牧師さんは、キリストを信ずると心に平安が出来る。それが療養にもよいのだ。又〝忍耐は練達を生み、練達は希望を生ずる〟のだから忍耐が大切だと云われて慰められた。しかし、一生懸命忍耐しようとすると、すぐ怠惰な心が出て来て一寸も忍耐をしてゐない。聖書を読めと云われても、つい碁を打ったり、雑談したり、フラフラその辺を歩きたくなったり、安静時間なども、余りよく守れなかったことを記憶してゐる。神は愛であると云うようなことも、実感としては湧いて来なかった。寧ろ、キリストの教が山上の垂訓にあるように厳しいものであろうことを想って、キリスト教はとてもついて行けないからこの辺で止めにしようと再三考えたものである。

 所が、丁度その頃外気小屋へ出るようになったので、偶然力さんの小屋に一緒に入ることになった。力さんはやはり、研究会に出席して居り、非常に地味にいろいろな手伝をやって居られ、心から尊敬して居た人物であった。丁度良い機会なので、力さんと共に、又聖書の勉強が始まった。力さんは決して高ぶらず、謙遜で年下の私を目上のように扱ってくれて、本当にキリストが最后の晩餐で弟子達の足を洗ったように、又〝人の頭たらんとするものはその僕となれ〟と云う、キリストの愛の教を文字通り生きているように思われ、私も急に、気持が変って来たのである。そこで、毎朝二~三十分、夜も一時間位、旧約を中心に二人で勉強することになった。毎朝聖書を読み合い注解書によって意味を確かめて行く時、不思議に聖書が生き生きとして来て、不思議な霊感を感じ、旧約時代の物語が、現実にあるように思われ、非常に勉強は進んだのであった。

 丁度その頃、諏訪信先生の隔月の講演会や、金沢先生、石原先生、そして塚本先生などがお見えになって、無教会的なキリスト教、言うなれば純粋な福音的キリスト教を充分にたんのうする機会が生れた。一度平の塚本先生の講演に出席した時、〝宗教は今迄、年寄のものであった。しかし、本当のキリスト教は若人のものである〟と云うような話をされた時、私はすっかり感激してしまったのである。死んだような宗教では、死ぬ間際の老人しか慰められない。生ける宗教は若人の情熱をとらえる。

 晴嵐荘の聖書研究会もその頃二つに分裂した。教会派と、無教会派である。このように分派が出来るのは私には嫌な思いであったが、水と油はまぜ合わせるわけには行かない。かえってスッキリしたようであった。

 その後、病状もだいぶ良くなったので、退荘と云うことになった。

 私は、家に帰ることは嬉しいが、家の人は全然キリスト教に理解がない連中であり、寧ろ、大嫌いな方なので、独りで家に戻ったら信仰の火は切角もえ出したのに駄目になりはしないだろうか、非常に心配した。

 しかし、今迄は温室で育てられたものが、大自然の中に飛び出し荒波の中に飛び出してもまれて強くなることを思い、何とか信仰の火だけは消さぬよう、たとえ泥まみれになっても、その火を守っていこうと決心し、晴嵐荘を後にしたのである。

 

体を殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れることはない。ただ、魂も体も地獄(ゲヘナ)で滅ぼすことのできるお方を恐れよ。(マタイ10・28)