「家庭礼拝の手がかり/キリストを信ずるまで2」(小貫武壽)

 

キリストを信ずるまで 第三回

 小貫武壽

 

 昭和二十六年十一月、複雑な気持で晴嵐荘から退荘した私は、当初ひどく家人に抵抗を感じた。家人は、私の体が本復して家に帰ったことを、心から喜んでくれたけれども、私は、寧ろキリストを理解して貰いたかった。家人は、ヤソぎらいであり、私がキリストの話でも始めると、いやな顔をするのであった。仕方がないから、前からの続きの旧約聖書の勉強を毎朝続けることにした。

 そのうちに、急に主として私の代りに書籍部を担当していたOさんの奥さんが胸を患い、再発であったので相当重症であって、Oさんは一ヶ月以上も休んでしまった。私は退荘して間もなくであり、体が生まであったけれども、毎日店に立たざるを得なくなり、実務につき始めたのであった。 

 ところがもともとこの長患いの原因は胃が悪かったためであり、病気中も胃が悪くて苦労してきたのがレントゲンで診察してもらった結果は極度の胃下垂であった。その為、体がひどく疲れ易く、長い間立っている商売は体の為によくなかった。そして、一ヶ月後には疲労がひどく、体はやせ、胃の具合は一段と悪くなった。終にはとうとう又寝込まざるを得なくなった。しかし私はあまり悲観しなかった。かえって、聖書に親しむ機会が増えたことを喜び、一生懸命寝たまゝ読書した。実務に入ると全く勉強は出来なくなるものである。だから病気は神の与え給うた読書の良いチャンスであると思った。

 丁度その頃、前から晴嵐荘で、水戸にも無教会の方が居るから尋ねて見ろと言われてゐたので、お手紙を差し上げたが、荘の誰かが連絡してくれたかで、水戸幼稚園の松本文助兄が態々お尋ね下さった。そしてしばしばその後もお見舞い下さった。そうこうしてゐるうちに、晴嵐無教会のグループの一人であった加藤美智子さんが退荘されたことを知ったので私は毎週日曜日毎に持回りで三人で家庭集会を持つことを提案した所が、皆賛成で、早速毎週集会をすることになった。〝二、三人我が名に於いて集る所は我もその中にあるべし〟とキリストが云われて居る。暫く集会から遠のいて居た私は、水戸に無教会的集りが出来たことと、私自身の信仰の支えとしてこの集会を永く続け、更に一人でも多く之に加わって欲しいと念願して居った。

 この集会には、しかし、家人は賛成しかねたようである。息子が日曜日になるとヤソ教に張込んで変な病気上りの女性を呼び込んだりしてゐる。先のことを心配したかも知れないし、又若い年頃の加藤さんとのおつき合いは、世間的には属に云う男女関係と思われたかも知れない。何しろ、毎週向こうへ行ったりこっちへ来たりしていたのだから。しかし、ご当人達は、別に何の気もなかったし、松本兄もそのことはよくご存じである。よく記憶はないが、この集まりは一年とは続かなかった。そのうちに加藤さんご一家は東京へ引越して了った。

 それから間もなく、十字屋さんが水戸に開店した。十字屋さんは、永遠の生命で純福音的な信仰に生きて居られることを知って居たので、早速開店の時に松本さんと一緒にお尋ねした所、大分混雑していたが、その時手伝いに来ていたらしい人に質問した所、〝うちは皆クリスチャンですよ〟と云われて、ビックリしたことを憶えている。

 その後、店長の佐藤さんにお願いして、店の集会に私達二人を加えて頂いた。所が、意外にも私達二人を先生扱いされるので、全く面くらって了った。店員さん方は一日忙しく働いたあとの集りなので少し単調な話になると眠くなるようであったが、神妙によく聞いて下さって、よい集りであった。私も語る立場になっては、今迄のように、何とか集会に出てもっとしっかりした信仰をつかみたいと云う依頼的な考え方では居られなくなった。私にとっては、此の集りもよい勉強になった。

 しかし、当時の信仰は私にとっては平安ではなく返って苦しみであった。家人からは体が疲れると云っていながら夜になると自転車で集会に出て行ったりして白い眼で見られると云う抵抗と、自分自身も何かしなければならぬと云う義務感に対して何も大したことの出来ない不甲斐ない自分を見出し、一つのジレンマに陥っていたのである。

 松本兄は〝信仰はたゞ受けさえすればそれでよいのだ〟と何度も云われたけれども、どうも判らない。何かしなければ本当の信仰ではない、生きた信仰とは云えない。と云う考えはずっと私を支配していた。

 次の年の四月、伊豆大島に母の兄が居るので、家人のすゝめで静養に行った。四ヶ月余り読書三昧にふけっていたが、どうも胃の方はよくならず返って悪くなって帰った。

 その後次の年の六月に胃の手術をやって下垂した部分を切除したが、之でやっと起きて動けるようになったのであった。

 その間、少しづつだんだん信仰が判って来た。いくら自分でやろうとしても、どうにもならないと云うこと。肉体もそうであり、精神もそうであること。そして主キリストの十字架の血の贖いによって本当に罪をゆるされると云うことが信じられるようになった。

 永い間の病気の苦しみは、神が私のために供えたもうた愛の鞭であったことを今にして識るのである。

 二十九年の夏、突然店が火災に遭った。全焼する店を眺めて私は驚き且つ先を憂慮したが、も早神に委せまつる他はないと思つた。しかし神は途を備え給うた。

 之がキッカケとなり、私は家業に精を出すようになった。此の火災は私にとって療養の期間にピリオドを打つことをお命じになったものと思われた。そして奮起一番立ち上がったのであった。

 その後は体も大体順調であり、家業も非常に困難な場面にもしばしばぶつかりながらもどうやら乗り越えることが出来た。

 今後もやらねばならぬことは沢山あり、種々の困難にも何度かぶつかるであろうけれども、一歩一歩神と共に歩んで行きたいと念願しているし、そうすることが最も安全で平安であると思うのである。