「家庭礼拝の手がかり/諏訪先生と水戸」(半田梅雄)

「家庭礼拝の手がかり/諏訪先生と水戸」(半田梅雄)/聖書 イザヤ書53章1~5節/讃美歌 285番

 

 これは、故半田梅雄兄が、水戸無教会誌第68号に掲載した文章です。半田兄は、水戸無教会発足時からの中心メンバーで、水戸無教会誌の編集責任者を長く務めたほか、社会福祉法人自立奉仕会茨城福祉工場を創設して、理事長を務めました。

 最初に聖書をお読みします。イザヤ書53章1節から5節です。

 

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのは私たちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって

わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

諏訪先生と水戸

半田梅雄

 

 「私の信仰」の著者諏訪熊太郎先生は、山形県鶴岡市にお住いで、今年八○才になられた。先生は、内村鑑三先生の特愛のお弟子の一人であられることは有名である。形式的なものにより頼むことを拒否された内村先生が、愛嬢ルツ子さんと諏訪先生に洗礼をさずけられたことは、無教会主義が、教条主義でない何よりの証明になると思うが、その基礎に生けるキリストの信仰、十字架の福音の本質があることを、私たちは深く考えて見る必要があると思う。

 諏訪先生と水戸無教会グループとの関係は、昭和三一年四月三〇日、小貫武寿兄の結婚の祝会のときに始まる。現在水戸市において衣料、寝具を主とするデパートを経営される小貫兄は、その結婚式を、御両親や周囲の人々の希望を顧慮して日本式で挙げられたが…

 たまたま諏訪先生の来水を期に、無教会グループ数名の列席の下に、霊的結婚式の祝禱をお願いしたのであった。当日先生は、お腹を害されており、長途の御旅行のお疲れも激しかったと思われるのにかかわらず、すべてを主のお導きのままに、この、世にも不思議な二度目の結婚式の司式をされたのである。長身痩軀の、しかし、全き謙遜そのものの先生によって、地上の肉なる結婚は、天なる霊のものに高められるものを覚えた。

 以来十四年、私たちの貧しい雑誌 「水戸無教会」などを

送りすることによって、私たちの小さな感謝は主と先生に捧げられた。

 私が今年差上げた貧しい年賀状に、 まことに丁重な御返事を下さり、さらに一字一字丹念に浄書された「私の信仰」の原稿を御恵送下さったのである。後進への深い御厚情に涙のあふれるのを禁じ得なかった。

 ここに先生の御許しを頂いて、「私の信仰」を「水無」誌の特集として発行するに当り、未だ先生を知らない方々のため、先生の御生涯の一端にふれ、参考に供したいと思う。もちろん拙い私の筆で、先生のすべてを書きしるすことはできないし、そのような不遜は許されてはならないので、先生の御著書「信仰一人旅」によって略記するに止めたい。

 諏訪熊太郎先生が、どういうお方であり、歩まれた信仰六○年の御経歴がどのようなものであるかは、前述の「信仰一人旅」にくわしい。

「思えば苦労の多い生涯であった。

   恵まれた生涯であった。

   少しの力で努力した生涯であった。」

と、著者の自序は始められているように、この世的に見れば実に苦難の連続ともいうべきものが、その御生涯であった。結婚後わずか四年と三ヶ月で、産褥熱の高熱が原因で、精神病者となられたゆき夫人は、その後足かけ三一年の間病み続け、病院と自宅の檻置室より出ることなく、五四年の生涯を終えられたのである。

 ゆき夫人の発病当時、小さいお子さん三人をかかえ、病気の夫人の身の回りのお世話をする先生のお姿を想像するとき、ヨブの苦難を思い起す。間もなく二女知恵子さん、御母堂の逝去にあわれるなど、人生の破たんは、次々に先生を襲った。ある日の日記に、

「夕食せんとするも、残飯の外に変色したる沢庵二、三片あるのみ、子等とこの食卓を囲む。味噌一皿を取り来りて、これをつつきながら共に食う。『昼食はどうしたか』と聞けば、〝紫蘇の葉きざみと梅干でたべた〟と言う。可哀想に思ったが、かかる経験も可ならんかと思い感謝して食し『うまいのう』と私が言えば、”ううん”と子等は答える。時に一人は言う、〝湯に味噌を溶かして飲みたい〟と。そこで茂一郎(親しき隣家)に湯をもらいに行けば、図らずもお汁一鍋を贈られた。子等はその中のさやえん豆片を見て狂喜し舌鼓を打った。」

とある。今日の昭和元禄時代には想像もできない悲惨ともいうべき生活がそこにある。

 かかる苦難と悲嘆の連続の中にあって、よく意気阻喪することなく、すべての苦難と悲嘆のうちに、主の恩恵を見出し得た人は幸であった。おそらく先生の遭遇された人生の苦難は、人間の耐え得る限界、むしろ限界を越えるほどのものであったのではなかろうか。しかるに、なお、先生の魂に感謝の杯はあふれ、他人にも、境遇にも怨みを向けることなく、その苦難の背後に偉大な救いの御手を感じ、低く低くへり下っておのれに悩みを与えるもの、おのれを苦しめ傷つけるもののために、あふれる感謝と愛の祈りを捧げられたのであった。

 福音とは、「よろこびのおとずれ」だと人は言う。然り、たしかに福音は、よろこびの訪れに相違ない。しかし、人はそれをば地上の幸福と結びつけて解しようとする。いわく〝福音を信じる故に富と健康と地位と名誉が与えられた。〟と。従って、その祈禱もわが一身の利益のため、わが家族の幸福(地上的な)のためなのが多い。だから、一たび地上の幸福をもぎとられると、たちまちみ言につまずき、人生に希望を失い、神も仏もあるものかと世をのろい、人を怨むものとなるのである。

 しかし、福音が真に福音(よろこびのおとずれ)であるのは、地上的の幸福と御利益を与えるからではない。むしろ私たちに災厄と苦難と悲嘆を与え、しかもそれを独力をもって、然り、他人の力を借りず、内なる魂に力を与えることによって、乗り越えさせ、ついに感謝と歓喜の人とならしめるところにある。

 世の制度、環境を変えても、必ずしも人の不平不満を取り除くことはできない。まして病気、そして、遂に人を死の運命から救い出す力は、他の何ものによってもできないであろう。福音は、この不可能を可能にする。それは、決して狂信者の自己陶酔ではない。冷静、厳粛、真摯に人生と取り組んだ人が、苦難の中にあって、謙虚に発する満足、感謝、勇気、希望の言によって証明されるのである。

 世にキリスト者と称される者は必ずしも少くはない。しかし、現実にキリストの十字架の苦難と同様に、おのれに非がないのに、受ける苦難をよろこんで負うて、神と人とに感謝と愛の祈りを奉げる人はまことに少ない。無教会だからそれが出来るのではない。教会だからそれが出来ないのでもない。実に人に頼ることなく、もちろん己れにも頼らず、ひたすら神に依り頼む者にのみそれが可能なのである。

 このような福音信仰を頂いた人は、何と幸福なことであろう。かかる人こそ、すでに「永遠の生命の国」に移されたる人である。地上の生涯が、いかに満ち足りたものであっても、この無上の宝を知らない人は、やはり不幸の人である。

 諏訪先生は、実にかかる意味における福音の生きた証人として、神に選び立てられた人であると信ずる。

   イザヤ書五三章に、

「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

 彼は侮られて人に捨てられ、

 悲しみの人で、病を知っていた。

 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」とある。

 主イエスは、実にこのような生涯を送り給うた。諏訪先生は、かかる主イエスによる生命の救済を、その苦難の生涯を通して実証されておられるように思う。凡そ偉大とか、知者、学者とかいう印象から、はるかに遠い謙遜そのものの御態度の中に、私たちは、福音のみに生きる一人の使徒の姿を見るのである。首都東京を含む日本の大都会の何れにも住まず、北の国、日本海に近い鳥海山麓はいかにも先生の生活の場所にふさわしいとさえ思う。

 最近の日本全体を覆っている病根は、人間と人間の信頼関係を、根本から抹殺する勢を持っているように思うが、これは一種の都会病といってよく、国籍不明の人間集団に咲いたあだ花とでもいうほかない。人間は、もう一度出発点にたち帰って、やり直す必要がある。

 福音の証人、真理の証者としての先生の伝道活動、そのすさまじい真理探究の精神は、直接著書に接することによって、一そう明らかとなる。一方に勤務と家庭を支えつつ、夜間徒歩で(後には自転車)知人一人もない農村を、一部落づつ訪ねて、路傍に伝道する姿は、想像を絶するものがある。 

 その訪れた村落一四六、第一回伝道は、一個所三日、第二回は一個所二日、開会回数は、二一三回、延べ五五○夜に及ぶ。暴風雨の日も、ただの一回も予定時刻に遅れたことがない。時には、一人の聴衆なき日もあった。それは、もはや、偉大とか、立派とか、人間的褒め言葉をゆるさない、壮烈な真理それ自身の大行進、大進軍である。

 このような面からのみ先生を考えると、あたかも、情緒に乏しいガリガリの勇者、猛者のたぐいのように誤解する向きもあると思うが、むしろ、少女のようなやさしいハート、臆病なはにかみ勝ちな青年の如き姿さえそこには見られる。ある婦人との交わりに見られる、罪悪感を脱するための激しいたたかい。ついにこれを聖化してすべてを聖手にゆだねるまでの血の苦闘、約十年に亘る愛と義の相刻を見るとき、到底形式的信仰者のうかがい知ることのできない厳しさがそこにはある。

 それは、己れの持てるすべてを、聖手に打ち砕かれた者に始めて与えられる勝利の記録である。

 例えその生涯が、恥辱と汚穢に塗り込められていようと、赤裸々に自己を聖手に委ねまつることのできるものは幸福である。

 偉大なるかな真理の証人、福音の勝利者、私たちは、ここに単なる人を見ない。もはやそこには地上の人間はない。すべてが主の栄光の顕現に帰せられている。神こそわがやぐら、われらの強きたてである。