「家庭礼拝の手がかり/真の自由を生きる為に」(半田梅雄)

 これは、故半田梅雄兄が、水戸無教会誌第28号(1960年発行)に掲載した文章です。半田兄は、水戸無教会の創立時からのメンバーで、長く水戸無教会史の編集責任者を務めたほか、社会福祉法人、自立奉仕会、茨城福祉工場を創設しました。

 最初に聖書をお読みします。ヨハネによる福音書8章30節~38節です。塚本虎二訳でお読みします。

 

こう話されると、多くの人がイエスを信じた。すると信じたユダヤ人に言われた、「もしわたしの言葉に留まっておれば、あなた達は本当にわたしの弟子である。真理を知り、その真理があなた達を自由にするであろう。」しかし彼らはその意味がわからずに答えた。「わたし達はアブラハムの子孫で自由人である。いまだかつてだれの奴隷にもなったことはない。どうして『あなた達は自由になる』と言われるのか。」イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う。罪を犯す者は皆罪の奴隷である。奴隷はいつまでも家におるわけにゆかない。いつでも追い出される。しかし子はいつまでも家におる。だから、もし子たるわたしが罪から自由にしてやれば、あなた達はほんとうに自由になるのである。そしていつまでも父上のところにおることができる。あなた達がアブラハムの子孫であることをわたしは知っている。ところがあなた達はわたしを信ずるには信じたが、わたしを殺そうとしている。それは当然だ。わたしの言葉が、あなた達の心の中で根を張らないのだから。わたしは父上のところで見たことを語り、あなた達も同じく自分の父から聞いたことをする。」

 

 

真の自由を生きる為に

半田梅雄

 

 新安保条約の強行採決以後、民主主義の危機ということが言われている。これは言いかえれば、政治的自由の危機ともいえる。 〝民主主義を守るために〟〝自由と独立を守るために〟というスローガンの下に、政治的立場の違うものが、互に暴力を用いるところまで来たのが日本の現状である。このような時に、私たちはどんな態度をとればよいのか、これに対する答は多くあるだろう。しかし、私たちクリスチャンのよるべき基本的な自由はただ一つしかない。それはキリストにある自由である。

 今日の日本の混乱と堕落は決して今始まったものではない。あらゆる国の歴史がそうであったし、今後もそうであるだろう。究極において、人間の社会は、人間の力によって浄化されない。すべての人が罪人である以上、それは当然のことである。にもかかわらず、社会の制度や組織を変えて、外側から人間を改造しようとする考え方が、現代の支配的傾向である。もちろんその善意と努力は尊敬に価する。 

 しかしそれを唯一の方法とする態度を私たちはとらない。私たちはキリスト・イエスにあって生きる。キリストこそ人間に真の自由を与える方だと信ずる。キリストによらなければ、世界に真の平和は来ないことを私たちは信ずる。人間の努力が、全然無駄なものだとは思わない。ただ正しい軌道を走らない故に、役に立たない働きをすることを私たちはおそれるのである。

 そこで私たちは、正しい軌道とは何か、キリストにある自由とは何かを、もう一度ふり返ってみる必要があると思うのである。

 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に自由を得るためである。(ガラテヤ五・13)

 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。(ガラテヤ五・1)

 もしわたしの言葉に留まっておれば、あなた達は本当にわたしの弟子である。真理を知り、その真理があなた達を自由にするであろう。(塚本訳ヨハネ八・31-32)

 主は霊である。そして主の霊のあるところには自由がある。(第一コリント三・17)

 罪を犯す者はみな罪の奴隷である。奴隷はいつまでも家におるわけにゆかない。いつでも追い出される。しかし子はいつまでも家におる。だから子たるわたしが罪から自由にしてやれば、あなた達は本当に自由になるのである。そしていつまでも父上の所におることができる。(塚本訳ヨハネ八・34-35)

 イエスとパウロの言葉を通して、私たちは次のことを知る。

一、罪を犯す者は、みな罪の奴隷である。

二、キリストは、私たちを罪から解放して下さった。

三、罪から離れて、イエスの言葉に留まるとき、私たちは真理を知る。

四、真理は人間に自由を与える。

五、キリストの霊のあるところに真の自由がある。

六、罪をゆるされて自由になった者はいつまでも神のみもとに住む。

 結論から先に言えば、「キリストの霊のあるところに自由がある。」とすれば、私たちはキリストの霊と共にある限り自由人である。もしこのパウロの言葉に偽りがないなら、私たちは例え牢獄につながれていようと、重症のペッドに死ぬまで釘づけにされていようと自由であるはずである。それが観念的な自由であるというのなら、キリストの十字架は無意味なものになってしまう。なぜなら、イエスは捕えられ、十字架につけられ、殺された。このイエスの死は一見不自由の極、無力の標本のような感じがする。だから殺される直前、「この大山師の大うそつき、お前が真実神の子なら、十字架から飛び降りて自分を救ってみろ」とののしられたのである。たしかに、こんな無力な神の子がいるはずがない、と人々は考えたに違いない。しかし、この人々を現代の日本人は笑うことができるだろうか、もし安保改訂に反対だというなら、なぜもっと徹底してアメリカ兵の駐留ボイコットをやらないか、だが、政治問題、経済問題、社会問題の人間の手による完全な解決は、究極において不可能であると私は思う。人間の罪が解消しない限り、罪人の集合体である社会も人類も、自己自身を浄化するととができないのは明らかである。

 事実、イエス御自身は政治的、経済的、社会的に力を持たれなかった。彼はイスラエルを占領しているローマ軍に対する抵抗を教えなかった。それはなぜであろうか、彼の眼には、聖人も君子も殺人犯も、資本家も労働者も、彼の指し示す神の前に悔い改めない限り、みなひとしく罪人であったからである。

 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1・15)というイエスの公生涯の第一声ほどこの事実を裏づける言葉はないし、彼の生涯は、結局この言葉に貫ぬかれている。

 「奴隷はいつまでも家におるわけにゆかない。いつでも追い出される」この約束を私たちは信じてはならないか。毒麦の譬の中に示されているように、政治的、経済的、社会的悪の追放が第一義なのではなく、先ずおのれにおいて良き実を結ぶこと、そして毒麦の焼捨ては刈入れる方のみ手に委ねるべきだというみ言葉を信じてはならないか、剣によって立つものは剣によって、暴力により頼む者は暴力によって滅びるという真理を信じてはならないか、否である。たとえ憤りに顔は青ざめ、口惜しさに歯ぎしりすることがあっても、私たちはすでに死にたるものなのだ。キリストと共に十字架につけられた、 この世的には無力無能の存在に過ぎないのだ。

 しかし、私たちは去勢された豚ではない。私たちには永遠に滅びない真理の味方がある。例え世のすべての人々が卑怯者、売国奴、意気地なしとそしろうとも、私たちには何人にも奪われない自由がある。

 私たちは福音を恥としない。政治活動、社会運動、経済闘争はそれを得意とする人々に任せればよい。私たちは福音を武器とし、み言葉により頼もう。私たちが第一にも第二にも第三にも、やらねばならぬのは福音の宣伝である。一にも福音、二にも福音である。私たちの敵は罪である。福音よりも政治や経済を上位におこうとする悪魔の誘惑こそ最大の敵である。

 たたかわんかな!真の自由を生きんために。

 

(一九六〇. 八  第二八号)