「家庭礼拝の手がかり/私の信仰 第2回」(諏訪熊太郎)

「家庭礼拝の手がかり/私の信仰 第2回」(諏訪熊太郎)

 これは、諏訪熊太郎先生から、水戸無教会の半田梅雄宛に送られた「私の信仰」の後半です。水戸無教会誌第68号(1969年発行)に掲載されました。

 最初に聖書をお読みします。ピリピ人への手紙2章12節~13節です。

 

私の愛する者達よ、そういう訳だから、あなた方がいつも従順であった様に、私が一緒に居る時だけでなく、居ない今は一層従順で居て、恐れ慄いて自分の救いの達成に努めなさい。

あなた方の内に働きかけて、その願いを起させ、且つ実現に至らせるのは神であって、それは神の善しとされる所だからである。

 

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(三)生活の事

 最後に、では我々信者たる者の日々の生活の仕方は何ういう風にすればよいか、という事ですが、其の点になりますと、私の今の行き方は、極めて簡単であります。従って極めて呑気というか、安楽であります。

 

(A)精神生活の行き方

 元の私は、ひどく聖書の律法を気にかけました。聖書のあそこに何と書いてあるから、あの様でなければならぬ、という風に気にかけましたから、其の当時の生活態度は戦々競々たらざるを得ないものでありました。然るに今の私は、然ういう風な行き方を致しては居りませんのです。では何ういう風にして居るかと言えば、唯だ、胸に響く所の御霊の御声に従って進んで行けば良いし、我が行き方は是非とも然うでなければならんと思って居るのであります。

 では其の、胸に響く御霊の御声とは何ういうものを指すか?と言えば、それに就ては少しく説明をしなければならぬと思います。私は前に、聖霊が私の内に宿って居られる事を確信して居るという事を申しましたが、その聖霊の宿り方は何ういうものかと言えば、それは例えて言うならば、私の胸の中にイエス様からの受話器が取り付けられた様なものだと思って居ります。イエス様が聖霊を受けられた時は、天開けて其処から聖霊鳩の如くに下って来るのをイエス様はご覧になられたとの事でありましたし、其の後、最初の弟子達に言われた所によりますと「よくよくあなた方に言っておく。天が開けて、神の御使達が人の子の上に、上り下りするのを、あなた方は見るであろう」と言われたのでありました。

 そういう点から考えましても、聖霊が我々に宿るのは、それは一箇の宝珠の玉が宿る様なものではなく、将に、神と我れとの間に塞がって居るところの障壁が破られて、そこに連絡の道が開ける事であると私には解されるのです。それで私が前に申しました『聖霊宿ったと言う事は、私の胸の中にイエス様からの受話器が取り付けられた様なものだと思って居る』と申しましたのは、然ういう意味の事を申したのであります。

 そして其の場合の放送者は勿論イエス様ですが、そのイエス様は、勿論今も生きて天に、神の大権の御座に座し、宇宙万有を支配して居なさるイエス様です。ですから私が頂いて居る所の聖霊は、私がイエス様に連って居る限り、力を以て働いて下さるのですが、若しも私がイエス様に後ろ向きになって、イエス様から離れてしまったならば、其の時即座に、受話器の働きは止んでしまって、最早や何物でもなくなってしまう事勿論であるのであります。

 兎もかくイエス様は、御霊によって其の御声をば、我々に聞かせて下さいますが、では其れを聞き受ける所の我々の耳は何であるかと言えば、前には『胸に響く』と申しましたが、もっときっぱりと言えば、『内なる良心』です。良心こそ、イエス様からの御声を聞き受ける『受者』となるのです。そして此の良心という受話者に響く神の御声なるものは、それは決して『稀れに』と言った様なものではなくて、『常に』です。何時でも不断にです。

 母は其の幼児に対して常に御声をかけて居ると言うたら間違いでしょうか。私は然う言うてもよいと思います。言葉には出さない時でも、無言の声をかけて居ると言えると思うからです。恰も然ういう意味で、イエス様は、常に信者たる者に対しては御声をかけて下さって居なさるのであります。何もせずに休むべき時には無言の御声を、何かを為さねばならぬ事のある時には、義務感とか責任感とかを胸に(良心に)起して、然うしなければ相済まぬ様に働きかけて下さるのであります。

 そして私の場合を言えば、その御声は、何時でも私に丁度よい程度に掛けて下さるのでありまして、其れは実に親切です。慈愛のお母さんが、三つ子には三つ子に適せる程度に、七つに成れば七つの子に適せる程度に、少しも無理なく、又、甘やかしもせず、最も適当に御声をかけて下さる様に、イエス様も、私には私に最も適当せる様に御声をかけて下さるのであります。それで私の仕事は、此の御声に従う事であります。唯だそれだけで良いのでありまして、何も余計な事をする必要もないのです。私は断然その様に思って居る者であります。だからして、今の私は、昔、律法相手に生活をした時とは全く異い、至極のんびりして居りますし、心平安であるのであります。

 唯だ其の間に、特に注意すべき大切な事は、御声を聞き逃がしたり、聞き違えをしたりせぬことです。其の為めには、受話者たる良心という耳に故障が起ったりせぬ様に心掛けなければなりません。それには何うしたら良いかと言えば、御声が掛ったら即座に従う事です。従い従い、迅速に従えば、良心はいよいよ清められたる、いわゆる『善き良心』となるのです。然るに若しもそれに従わず、踏み

付け踏み付け不従順にして居りますと、テモテ前書に「良心に焼き印を押されて居る偽り者」(四の2)とある様な状態にならぬとも限らぬのですから、此の点は特に注意をせねばならぬ事と思って居る次第です。

 要するに、私の生活の仕方は、良心に響く御霊の御声に従順に従って行く。之れで宜しいのであって、之れが私の唯一の行き方でなければならぬと思って居るのであります。従って、私の行き方は、前から申して参りました通り、極めて簡単であり、且つ安楽であるのであります。

併し此の呑気安楽と申しましたのは、之は内側の精神生活の方面の事を申したのでありまして、外側の方の境遇的な方面の事を申しますならば、それは必ずしも呑気安楽と言った風のものではなく、前にも申しました様に、其れは反ってきびしい訓練の連続と言うてもよいものだったのでありました。

 

(B)境遇に対する行き方

 私は恥かしいですが、元来、弱虫でありますから、気の強い人には『これしきの事』と思われる様な事でも、私には随分痛く感ずるのであります。それで、私の生涯というものはそれだけ余計に苦しみの多い生涯であったのでありました。では其の大きな苦しみに対して私は何ういう風に対しましたかと申しますと、初めのうちは、一時も早く然ういうものから解放される様に祈りました。病気の時には病気の早く癒される様に、又、嫌な事情が起った時は、然ういうものが一時も早く解消する様に祈ったのでありました。然るに今より十何年前の或る日の出来事以来というものは、私の苦難に対する態度は一変し、喜んで居ります次第ですから、今から其の事を申し陳べて終りにしたいと思います。

 それは、時日を正確に申せば昭和二十六年四月八日の事ですが、其の時私は病床にありましたが、そこに、心を痛める事が色々と重なり重なり、起って参ったのでありました。弱い私、もうやり切れない思いになったんでありました。寝ては居れない。起き上がって見るが一層苦しい。全く何うにもやり切れない思いになりました。その苦しい最中にです。私は思わずも斯う祈ったんでありました。「神様、あなたの与え給うだけを頂戴致します』と祈ったんでありました。声に出したか何うかは忘れましたが、それはどちらであっても同じ事、兎もかく然う祈った。そして、然う祈りましてから私は反省をして見た。そして『おれは今、よい祈りをした。我が祈りは斯うでなければならんのだ』と、強く感じたのでありました。祈りの意味を言えば、私の心は、好きな事物はなるべく多く来る様に、嫌いな事物は成るべく来ない様に欲するので、神様からも然ういう風に与えて頂きたく、今迄は祈って参ったのですが、併し今度は然うではなく、神様が善しとして御与え下さるものであれば、好きな事物、嫌いな事物、どれほど多くあろうと、少くあろうと、文句言わずに従順に頂戴致します。という意味なのであって、之れでこそ神への本当の従順というもので、我が取るべき態度は斯うでなければならんのだと、強く感じたのでありました。

 そこで今度は改めて此の事をば心をこめてお祈り申し上げた。『今は、嫌に思います事がこんなに多くありますが、併しそれでも、之れが御意でございますならば頂戴致します。あなたの与え給うだけを頂戴致します』という風に申し上げたんでありました。所が、心の中は、今までの苦しみが一変致しまして、愉快の様な軽い気持ちになったのでありました。そして結局に於ては、実際の事情も、そんなに大した事もなく好転したのでありました。それ以来というもの私は、嫌な事に会う度び毎に、今でも此の通りの祈りの言葉を繰り返して居ります。『あなたの与え給うだけを頂戴致します』です。斯う祈れば殆んど凡ての場合、心は平安に治まる事を経験しつつ今日に至って居るのであります。

 

   結語

 そして此の態度は、之を言いかえれば、神の与え給う境遇に対し、心から従順に従うという態度なんでありまして、従って私の現在の信仰生活なるものは、内なる心に於ては、その内なる良心の耳に掛けて下さる神の御声に従順に従わんとし、外なる境遇に於ては、これまた、神の御与え下さる所に従順に従わんとして居るのでありまして、一言以て言えば、

『神への従順』

これこそ私の実際生活の行き方となって居るのであります

 元より惰弱な人間の事ですから、それに背くような事も有り勝ちなのですが、兎も角、私の大方針としては其の様になって居るのであります。

そして私自身としては

私は本当に幸福な人間だ

私の歩いて来た道は、

誤りではなかった。

本当の生命の道であった。

何とも有りがたい限りだ!!。

と、神への感謝一杯であるのであります。

 

   以上が、私の信仰の背骨であります。(終)