「家庭礼拝の手がかり/水戸無教会の出発点-松本文助兄の信仰-」

「家庭礼拝の手がかり/水戸無教会の原点-松本文助兄の信仰-」

 

 本日は、水戸無教会聖書集会の出発点ともいうべき、松本文助兄の文章を3つご紹介します。「創刊にあたって」、「神の国は受くべきものなり」、そして、「病者もまた働くなり」です。

 松本文助兄は、水戸無教会創設時の中心メンバーであり、水戸幼稚園を集会の会場として提供したほか、水戸無教会誌の発行人として、発行の責任を担われました。

 最初に聖書をお読みします。ルカによる福音書6章27節から28節です。

 

しかし、私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

 

 

水戸無教会誌創刊号(1955年発行)より

  「創刊にあたって 」

松本文助

 

 「汝らを詛う者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ」(ルカ六:二八)との聖言は理想の如く感じていた。そして之は傳道の如き場合に迫害を受けたとき、このような態度を取るべきであると考えていた。 

 然し、この世的の関係に於いては自分で正当であるとおもうことに、他からの批難攻撃を受けると、反駁や弁明や或はその不当をせめようとして昂奮する。果てには実力でも行使しない限り解決が出来ないかの如くまで思いつめるのであった。殊に相手が教会人の如き場合はイエスに対するあの学者パリサイ人の理不盡なこと、それと同じであることを指摘して、やりこめようとばかりおもい、自分の矛盾には少しも氣付かずにいた。 

 最近、またある事件に対し例の様に考え始め仕事のとき勉強のとき執念深くおもい出していた。

 ある夜の祈の時であった。祈の中にそのことをも祈らんとした。その時「敵の為に祈れ」との声が心に響いた。私は祈り始めた。所が実に不思議なことに、心は一変し何とも云えないほほえみさえ感じ始めた。一点のわだかまりもない爽快さであった。心の眼の鱗のごときものが落ちた。そして愛が敵に対する唯一無二の武器であることを知ったのである。

 冒頭の聖言は私の血となった。敵を愛することだ。本当に愛することだ。理屈でも実力でもない愛することだ。愛のみがこの世のすべてを浄化するのだ。神はその独子を賜うむほどに世を愛し給うたのである。(ヨハネ三:一六) 独子イエスは神の御心にただ従って己が身を十字架に釘打たれたのである。愛である。愛である。コリント前書の記者の書かれた信仰と希望と愛とこの三つの中最も大なるは愛であるとは実にアーメンである。水戸無教会誌の発刊 もまた愛の発露でなければならない。進まんかな、教友よ、同志よ、愛のシンボル十字架を負うて。 

 

 

水戸無教会誌第2号より

「神の国は受くべきものなり」

松本文助

 

「神の国は受くべきものなり」

 この句は幾年か前に塚本先生から聖書表紙裏面に書いて戴いたものである。教会信者であった私は、教会のために働くこと、その集会に出ること、伝道をして教会に人を導くこと、聖書を勉強して通読すること、献金の多いこと、慈善をすること、などがクリスチャンの義務であるかの如く実行に努めようとしたのであったが、何一つできなかった私は却って他人を羨望し、一人淋しさを感じたのであった。このさもしい気持は幾分この句によって慰められた。神様の国では与えるのではなく受くべき処であるとおもうと、何と気軽さを感じたことか。

 昭和二十四年一月四日郷里に向う車中のことであった。スチームも通らない冷え切った朝まだき寒さのあまり黙禱し始めた。その所の中に心の奥深くに「ただ受けなさい」と云う声がしたのであった。それはかすかな、いまにも消えそうで気づかないくらいであったが、日が立つに従ってその声は鮮明で且力強く拡大して私を支配し始めたのであった。そしてこの句がヨハネ伝一の一二節の「これを信ぜしものすなわちこれを受けしものは神の子となる権を与え給へり」の聖句を意味するのであるとわかって歓㐂したのであった。然し聖書研究のために家を出かけると、お前の罪はその資格があるか、よし現在はともかくも過去のお前のあの罪この罪はどうした。私は短刀を突きつけられた人の如くなった。然し「ただ受けなさい」と云う声はカンフル注射の如く蘇生のおもいであった。斯る罪の中にキリスト・イエスの十字架の贖罪によって罪なきものとみなしてくださる神の御意をなぜ受けないのかと気づいたときに永い間蘇らずにいたポウロの「噫われ悩める人なるかな・・・我らの主イエス・キリストに頼りて神に感謝する」(ロマ書七ノ二四、二五)と百八十度の転換しての感謝が自分の感謝となって絶叫した。

 神様が独子イエスを十字架につけてどんなやくざな人間でも罪ないものとしてくださったこの御意を受けるものを義とし給うと。また神の子の権をあたえ給うと。何たる恩恵でありましょうか。この恩恵を受けたポウロは主イエスの名のために死ぬることおも覚悟し(使徒二一ノ一三)あの偉業はなされたのであった。ルーテルまた然り、内村鑑三また然り、福音なるかな、福音なるかな、実に「神の国は受くべきものなり」である。

 

水戸無教会誌第3号より

病者もまた働くなり

松本文助

 

 私は病院の事務を執っているので病人に接する機会が多いが、結核病棟の患者の病床の生活をおもうと絶えられない感じがする。痛み、不快さ、そして経済問題、家庭問題、社会問題それからそれへと色々ななやみが荒波の如く打ち寄せる。その苦痛はヨブののろいの如くなるであろうと思うのである。(ヨブ記三章)。斯る病者の苦痛そのものゝような人生に、はたして意義があるのであろうかと、深く考えさせられるのであった。

 然し或る教友の姉妹が入院されたので、私は聖書研究を始めた。姉妹は横臥したまま五年近くもただ熱心に聴くだけであったが、この間私にとっては実に大きな信仰的な収穫があって、神様の深謀に驚いたのであった。

 聖書知識誌第二〇五号の巻頭言「ポスト」の記事が自分の実験となった。

「何も伝道をなさらなくたって皆様がああして東京の眞中で何年も本当の福音にしっかり立っていて下さることが立派な伝道ですわ」

「しっかり立つにも程がありますよ。十年も二十年もただ立っているだけなら町角のポストと同じだ」

「ポストだって結構ですわ郵便物をお配りするんですもの」「ーー」

 何一つ出来なくともただ熱心にその救を求めんとするときに福音の「お配り」の役目をはたすことが出来ることに気が付いたのであった。

 塚本先生の丸の内集会廿五周年を迎えたことも聖書知識三百号の出版を見たことも、全くその救を求めんとする者があってのその果実ではあるまいか。

 イエスがマルタの家に迎えられたとき、マルタはイエスに対する饗応に心いりみだれるほど働きイエスをよろこばせんとしたが、妹のマリヤはイエスの足下に座して御言を聴きいっていた。マルタはたまりかねてイエスにマリヤを手伝わしめるようにお願いした。ところがイエスは自分の為に心労し働くマルタよりも、ただだまって聴き入っていたマリヤを非常におほめになった。「マリアは善きかたを選びたり此は彼より奪うべからざるものなり」と(ルカ一〇の三八ー四二)

 病める兄弟姉妹達よ。何たる歓㐂、何たる福音であろう。イエスはたゞだまって御言を聴き入っている者を㐂び給うのである。そうしてイエスは神様の御心にたゞ従順に十字架の苦杯を受けた。そのことによって有史以来実に比類なき大事業を為したのである。

 神様は無為と思わるるような病者に却て偉大なる働きを為さしめんとするのである。