「家庭礼拝の手がかり/神に向かって歩む者(2)」(岩島公)

神に向かって歩む者 (二)

岩   島      公   

 

 ロマ書十四・十ー十二に基づいて、話の第二部、「キリストにある独立」ということについて、今日わたくしの心を占めていることを簡単に申し上げたいと存じます。

 も一度、十ー十二を読みます。

10それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか、あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 11すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と書いてある。12だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。

 ここは、十四章一節からつづいて「兄弟をさばくな」ということを言っているのですが、ここの重要な意味は二つあります。

 第一は、十、十一節によって、わたくしどもは、神の前にさばかれるもので、さばくことは不可能だということ。

 第二は、十二節で言っている通り、「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」ということであります。

 第一の意味は、八節の「わたしたちは主のものなのである。」と、四節の「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。」で明瞭になります。わたくしどもは神に従う僕であり、さばきは、ご主人である神が、一人一人の心の底を、人間ではわからないところまで見通してなさることだから、人間の分際で、信仰の問題について他人をさばくことは不可能であり、倣慢であります。そもそも、信仰とはひとりびとりと神さまとの直接関係であって、他人がくちばしを入れる余地は全くないのであります。

 第二の、「神に対して自分の言いひらきをすべきである。」というのは、五・六節で、「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。」を受けていると思います。すなわち、聖書は信仰について原理を示し、個々の具体的な問題は、信者の信仰による判断にまかせております。だから、そういう具体的な実践となると、人によって判断が異なって来ます。パウロは、それはそれでよい、だが、その判断には確信がなければならぬ。そのおのおのの確信するところを、さばきの座に立った時にのべて、自分の行為について言いひらきをすべきだというのです。

 ヨハネ三・十八に「彼を信じる者は、さばかれない」とあるの

に、ここでは「さばきの庭に立つ」とあるのは矛盾のようですが、前者は救われるか滅ぼされるかの審判で、後者は信者の諸の行為の審判であるのであります。

 

 さて、わたくしは、話の第二部は、「キリストにある独立」についてのべると申しました。どこからそのような意味をわたくしはとらえるか。

 それは、「わたくしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」ということに関してであります。

 「言いひらきをする」必要はどこにあるのか。

 そもそも、信仰の具体的実践は、すべて、自分がただひとりで、祈って神の前に決断して進まなければならないことばかりであります。いかに立派な先生のでも、真似ごとでは神に向かって信仰を生きるものではありません。そのような、何ものをも真似しない、真に自己の判断に基づく行為は、世の人々に承認されることは少ない。神さまも何とおっしゃるか、神さまの前に出て伺ってみなければわからないのであります。だから、自分の信仰にかけて決断し、実行したことを、「わたくしはこう信じて、こう行って来ました。」と言いひらきをしなければならないのです。けれども、言い開きをする場が与えられているということは、神さまだけに向かって生きて来たものにとって、何というありがたいことでしょう。しかし、それは、パウロの言うように確信ある決断でなければなりません。確信なくして、神さまに向かって、正面切って申し上げることはできよう筈がありません。

 それでは、いかにして確信ある決断ができるか。第一は、キリストの十字架によって、罪はすっかり赦されていることを信じていること、第二は、神さまのため、キリストのためだけと思って、人を愛するために決断すること、であります。このような信仰にあって、このような態度で問題を決断して生きる者は、み前に出て恐れることなく申し開きができます。なぜなら、そのような第一の信仰も、第二の態度も、恩恵により、キリストから賜わったものであるからであります。かくして、神以外は何ものをも恐れぬ「キリストにある独立者」となるのであります。キリストによらずして、独立はありません。キリストを信ずる者に、この独立を賜うのであります。キリストにあって、神に向かって歩む者に、歓喜があり、独立があるのであります

 

 一九七三年のクリスマスにあたり、このキリストにある歓喜と、キリストにある独立を賜わった神とキリストに、心からの感謝を捧げるものであります。