「家庭礼拝の手がかり/職業と人生⑴」(鈴木武直)

「家庭礼拝の手がかり/職業と人生」

 

 これは、東京で理髪業を営む鈴木武直兄が、1966年5月22日に、水戸無教会で行なった講演の第一部です。鈴木兄は、福島県相馬市出身で、幼い時に北海道に移住され、高等小学校を卒業すると同時に理髪業に進まれました。やがて浅見仙作翁によって信仰へと導かれ、浅見翁の紹介を得て、内村鑑三のもとで学ぶようになりました。鈴木兄は、理髪師として活動するうちに、信仰への熱心から、顧客への伝道を行うようになり、忙しい業務を担いつつ、伝道雑誌「荒野の歌」を発行するほか、保護司として、刑務所の死刑囚に対しても福音を説き、良き友となって接しました。

 

職業と人生

    

 

 あなたがたのうちに良いわざを始められたかたがキリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している(ピリピ人の手紙1・6)。

 

  世界一の理髪師にならうと思う

 

 私が現在の職業に従うようになったのは、両親のすすめであり、自分でも㐂んで修業する気になったからでもありました。

 弟子入りして白衣を着せられて営業所に立たされた私は、その瞬間〝世界一の理髪師にならう〟と思ったことは今考えると不思議でなりません。爾来四十四年大正昭和の激動激変の渦中にしかも世渡りの下手な私が今日まで大禍なくやり通して来られたことの中に、大いなるそして、お恵み深い神の御導きを感じない訳には行かないのであります。

 

  やればできる

 

 技術を身につけるためには並大底の苦労ではありません。初めから世界一にならうと思って居る私は、何人よりも勝れた技術を身につけるにはどうしたらいいかと子供心にも思ったのです。先づ第一に誰でもできることで誰よりも上手になろうとして、実行し初めたのが床を掃くこと、刈り落された毛髪を、技術を行って居る人の邪魔をしない様に処理することでした。萬時このような心構えですべてのことにあたって、一つ一つの技術を修得して、二年後にはその上達を褒められるようになったのです。そんな訳で〝やればできる〟と堅く思うようになったのです。

 

  先生は一人

 

 剃刀は何丁も持って、代る代り使うものなのですが、最も自分の心にかなう物は、一丁だけなのであります。何十丁持って居ても最後に残るものは一丁だけなのです。よく世間で、誰からでも善いことは学ばなければならないと言いますが、それは表面だけ、小手先のことならいざしらず眞の技術を身につけ、極意を受けつぐのには、そんな訳には行かないのです。その意味でも私は誠に恵まれました。私の師となるべき人が私の前に顕れ、その先生は理髪のことだけでなく、クラシック音楽の手ほどき、それに「聖書の研究」(内村先生発行)なども読んで居たり、文学書や絵画などにも深い関心を持つような、大きな影響を与えられたのです。

 それは凡て理髪の技術を学ぶ上に、大きな役割を果して居たのです。私は一から十までこの先生を先生として、他の人は顧みませんでした。それは私にとって、最も幸いなことでありました。

 

  職業名の移り変り

 

 髪結い床、髪床、床屋、散髪屋(関西地方)理髪、理容、こんなに職業名が変り未だにはっきりした職業名のない職業は、他に類例のないことであると思います。それだけに私たちの職業の性能また性質が一般にも、また業者にも正しく理解されて居ないからであらうと思います。それはともかくとして、理髪という職業は、どんな社会情勢の変化にも大した影響を受けない、デフレ、インフレ、新円切替、封鎖のようなこともさほどの影響を受けないのです。彼の大戦争の空襲の最中でも、髪を刈らうとする人間的欲求はなくならないばかりか、そのような時程益々強い要望の起るものであることを知らされた訳です。

 

  二つの性質

 

 どんな時でも、髪を刈らずには居られない、髪の手入れをしないでは居られないというのが、人間の極めて自然の情である。この理髪の技術には、生活の便宜上のこと、また快感それに美観を満足せしめようとする二つの性質をもって居るのです。

 生活の便宜上のためのものは、機械的に行動すればよいのであるから、大した問題はないのであるが、美的感覚を満足せしめる・・・技術を行なうことによって、外観上その人にふさわしいものとするということになると、これは重大なことになります。これを追求すれば、畢竟人間は何んであるかを知らなければならないことになるのであります。この点理髪師は大哲学者に勝って悪いということはないのであります。勿論大哲学者でなければ理髪の技術者になることはできないということはありませんが、技術者となった者にとっては、自己の良心の問題となって来るのであります。

 「あなたの髪が横になるか、また縦になるかはフルシチョフがアメリカの大統領になる、またケネディがソビエットを支配するようなことがあるよりも、私にとっては大きなことなのです。」と或る時話したことであったが、決して大げさな表現ではないのです。髪の毛一すじの處理のしかたで、その影響は決して小さいものではないのであります。これは技術上のことでありますが、職業を通して、家庭の人、また社会人、そして国民として如何にあるべきか、また職業を通して如何にして正常なる世界観に立つことができるであろうかと考え、そのような自覚が、どのような働きをして、どのような意義をもたらすものであろうかと、考えた時に、私たちの職業も、他の如何なる職業とも同じであって、軽視されたり、蔑められたりすることは許されないのであります。

 

  使命

 

 「木口小平はラッパを口にあてたまま敵の弾にあたって倒れました。それでも口からラッパをはなしませんでした。」これは小学生になった私たちが声高らかに、読みあげたもので、木口小平という人は、ほんとうに偉い人であると子供心にも強く思ったことでありました。

 その人はその人らしく生きるということは容易なことではありません。高尚な理想なくして、ただ楽しく多くの収入を得たいと思っても、その欲望がかりに充たされたとしても、決して㐂ばしきことではありません。徒らなる享楽を追ったり、守銭奴的な生活の空しいものであることは、古来の人々の述懐に聞くまでもないことであります。秀吉の「露とおき露と消えぬるわが命難波のことは夢のまた夢」やソロモン王の「空の空なるかな、いっさいは空である。」などは凡て人の周知のことでありますように全く、そのような欲望を充たそうとする末路はまことにあわれなものであることはいうまでもないことであります。

 衣食足りて礼節を知るといわれますが果たしてそうでありましょうか。衣食足ってからでなければ知ることのできないような礼節は、眞の礼節でないことは何人も知り尽して居る筈なのであります。物質的に豊になれば、人間として価値のある生活ができるかというにそうではない。時間的に余裕があれば意義のある活動ができるかというに決してそうではないのです。

 これは自分にとって、是が非でもやらなければならないことであるという、強い意志が起って、初めてなし得るのです。経済的にまた、時間の余裕があるような時、その時こそ反って、眞に成すべきことができなくなるようなことの方が多いのではないかと思うのです。大事な要件を依頼する時は、暇で遊んで居るような人にたのむものではない、とは世馴れた人の常識であります。それはともかくとして、私のように四十余年同じ職業に大した事故もなく、続けられたということは、自分の意志や周囲の要望だけで、できるものではないということを痛感せしめられるのです。

 福沢諭吉という人が時の政府から教育功労者として叙勲の沙汰があった時、自分は教育者として、教育のために、自身を投じたのであるから、それによって、いささかのことがあったからといって、あたりまえのことである。自分のようなものにどうするというよりは、隣家の豆腐屋や、車を引く事を業として、多くの人の便宜をはかって居る人々に、眞先に勲章をやってほしい。というようなことをいわれて、自分の受賞を断ったということであるが、これが、士、農、工、商、と職業の階級をはっきり付けて居た時代のことであるから驚きます。職業には貴賎はなく、全ての職業は平等である。〝天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず〟といって凡ての人は平等であることを、身をもって生き、他人にも徹底させようとしたのであるからたいした人だと思います。福沢諭吉という人がこのような態度で、自己の職業に徹し、自己の職責をまっとうできたのは、教育という事業に深い使命を感じて居たからであると思います。

 

 日本語の職業という字をどう読んでも、職業という意味を引出すことは甚だ困難であります。業という字は佛教のカロマから来て居るとすれば、いささかの意味は感じられないこともない訳ではありますが、天職となると職業本来の意味がいくらかは感じられるのではありますが、英語ではコーリング(calling)、ドイツ語ではベルーフ(Beruf)というのですが、英語のコーリング(calling)もドイツ語のベルーフ(Beruf)も同じ意味で、〝呼び出す〟という言葉であります。職業は、救主キリストの神が、私たち一人一人を、羊飼いが一匹一匹の羊の名を呼んで檻からつれだす(ヨハネ一〇・一三)ように、一人一人をよく知って呼び出すのであるというのです。コーリング(calling)もベルーフ(Beruf)も、職業の厳粛で深い意義を伝える言葉として、ほんとうにふさわしい言葉であることを感じさせられます。このように職業というものは、その職業にたづさわった者が、それによって、何物かを得ようとする下向きの姿勢よりも、偉大な力に従って行かなければならないのであるという、上向きの姿勢の大事なことを知らなければならないのであります。そのことの意義がわからなかったら職業の何んであるかを、知ることはできません。そして偉大な力に支えられて歩まされて居るのであるという目覚めのない限り、その人はその人らしく歩むことはできません。従って自己の職業に従うことの眞の㐂びはなく、自己の職業を誇りとするような心境にはなれないのであります。職業を通じて、強い使命を感じてこそ自己の職業に誇りをもち、明るくそして、高い希望が起って来るのであります。