「家庭礼拝の手がかり/職業と人生⑵」(鈴木武直)

「家庭礼拝の手がかり/職業と人生⑵」

 

 これは、東京で理髪業を営む鈴木武直兄が、1966年5月22日に、水戸無教会で行なった講演の第二部です。鈴木兄は、福島県相馬市出身で、幼い時に北海道に移住され、高等小学校を卒業すると同時に理髪業に進まれました。やがて浅見仙作翁によって信仰へと導かれ、浅見翁の紹介を得て、内村鑑三のもとで学ぶようになりました。鈴木兄は、理髪師として活動するうちに、信仰への熱心から、顧客への伝道を行うようになり、忙しい業務を担いつつ、伝道雑誌「荒野の歌」を発行するほか、保護司として、刑務所の死刑囚に対しても福音を説き、良き友となって接しました。

 

 

職業と人生 第二部

 

    

 

  生活の原理

 

 一般に生活というと経済のことを思う、しかしそれはあくまでも、第二義的なもので、如何に人間らしく生きるかということにあるのでありまして、人間が人間らしく生きるということは、如何に道徳的に生きるかということでありまして、人生の眞の目的は、高い品性を備えるにあるということができます。内村先生が京都に居られた時のことですが、奥様の実家を訪問された、実家では、先生の御生活の窮状を察せられて、米やもちをさしあげたのです。一応は有難くいただいて帰途についた先生は、途中現在の生活の不甲斐なさを辱じ、通りかかった五條の橋の上から、もらって来た風呂敷包みをそのまま川の中へ投げこんで、さっそうとして帰宅されたことが、少年物語となった内村鑑三にあったのを読んだのでありましたが、心の引きしまる思いがしました。

 生活の目的が判然としないと、生活に密着して居る経済のことに迷い、まどわされ勝ちになるのです。しかしこの経済ー物とか金ーに対するはっきりした考えを明かにすることは缺くことのできないことなのであります。内村先生の「商人と宗教」というパンフレットの中で、「金をたくさんもうけたということは、決して、もうけない人の思うほど、幸いなものではなく、ある意味ではかえって不幸なことである。富者であるという誇りのうちにあって得意の人もありますが、およそ人がその所有する物質をもって誇るときは、その人の品性は、はなはだしく下落した時である。そして富は人と人との関係を不純ならしむるものである。富者に対しては、たいていの人が、へつらいと卑屈といつわりをおこないます。うわべだけ富者を尊敬します。気に入りそうなことを、おこなったり言ったりします。けれども腹の中ではわるく思っています。従って、誰でも実意というものを示す人はありません。富者は人々から形の上だけでうやまわれて、心では遠ざけられるのであります。従って、世に富者ほど孤独なものはない、かつまた富者の前にたくさんの人が屈従するのを見て、富者は、人間がいかに卑しきものなるかを感ずるのであります。金の前に拝跪する人間のみにくさを痛切に見せられるのであります。すなわち富者は人間のうちのつまらぬ人のみが目につきます。云いかえれば金は人を見せしめるものであります。」と金銭や物に対する人間の姿を具体的に述べて居ります。金は生活の上で極めて重要な位置をしめて居りますので、これを正しい認識の上に立ってこれに当たるか、そうでないかは、精神生活を重ずる人生にとって大きな問題となって居ることであることは云うまでもないのであります。物と云い、金と云い、これを卑しめたり軽ろんじたりする事は出来ません。正しく使用することができれば大きな力とすることができるからであります。家庭を健全に建てる基本ともなり、社会を益し、隣人を助けることもできる、国に正義を行わしむる原動力ともなる尊い器ともなるからであります。人間を誤ませるものも金、執着せしめて人間生活を虫ばむのも金、しかし恐るる必要は決してありません。勤勉と質素とをもって、大謄に活用することによって、生活を前進せしむるようつとめるべきであります。

 

  カイザルのものはカイザルに

 

 だれでも同時に二人の主人に仕えることはできない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎じるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることはできない。(マタイ六・二四)いつどんな時でも、、迷うことなく自己の生活を正しく進めることのできる道はただ一つだけです。或る時イエスをおとしいれようと、たくらみをもった者に、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ。」といったので、おとしいれることができないばかりか、そのうけ答えぶりに驚きながら黙ってしまった。(ルカ二〇・二〇~二六、マルコ三・一三~一七、マタイ二二・一五~二二)カイザルの物すなわち金、金には金としての分がある、そして神のもの、それは人間の自由意志、すなわち魂。この自由意志は神からいただいた人間にとって一番大事なものであるので、これはどこまでも神のものとして、きずなく、汚れないものとして守らなければならないのです。そして神のものは神に返せといわれたように、私たちの魂はあくまでも、神以外の金やその他のものに奪われることなく、神に返さなくてはならないのであります。〝だからあなた達は、天の父上が完全であられるように〝完全になれ〟(マタイ五・四六)とあるように、私たち人間には、どうしてもそうしないでは居られない、そうなりたいという重要な面のあることを知らなければならないのであります。

 

  充たされし希望

 

 しかし人間というものは弱いもので、迷いやすく、禍誤を犯しやすいものです。四十にして迷わず、五十にして天命を知る。とありますが、そういう面もあります。しかし人間は幾つになっても迷います、動揺します。眞剣に生きたい、また生きなければならない、そう思って生活に当るのですが眞剣になればなる程思うように行かない弱い自分を発見させられるのであります。私は獨立して同じ場所で営業するようになってから満三十年以上になりますが、開業した時から現在まで何の進展もありません。いささかの設備の改繕はできたといっても、経済的な発展は得られなかった。私は三十年間営業して、店が古くなったのと、よくも年をとったものだと思う位で見るべきものは何一つないのです。営業の成果である物質的なものでは、私の今日までの働きは全く見る影もない姿なのであります。しかしながら少年の時、心に描いた〝世界一〟は内容は変りましたが、たしかに自分は世界一の理髪師であるという自覚に立ったのであります。失敗したとか、成功したとかの外側の条件に左右されない、目には見えないが、これこそほんとうに生甲斐のある新しい希望の世界が、頑固な私の、魂が打ちくだかれて、その上に新しく、建設されるようになったのであります。そして現在の境遇を心から喜び感謝しないでは居られない心境に立たされたのであります。そしてキリストを信じ、キリストに頼りたのむ生活は、どんなに巧みな経済的に優れた知者にも勝さるものであることを教えられるのです。「空の鳥を見てごらん。まかず刈らず、倉にしまいこむこともしないのに、天の父上は養って下さるのである。あなた達は鳥よりも、はるかに大切ではないのだろうか。」(マタイ六・二六)たしかに多くの人達は生活の建てかたをとりちがいて居るのです。人間としてのあるべき姿を失って居るため、得ようとして益々失うようなこととなって行くのです。人間として価値のあることを成すのにはどうすべきであるかということを探求しなくてはならないのではないかーー人間が真剣に求めるべきもの、それは神の国と神の義であると聖書にありますが、私もそうだと思います。そしてそれは、萬人にとって、生活の基本とならなければならないものであると思います。若し神の支配する御国と、神に義とされることを求めることを第一のこととし、最上のこととすることができるとするならば、そのときからほんとうに、あすのことは心配する必要がなくなり、一日の苦労は一日の㐂びとなり、感謝のうちに終ることができるようになるのであります。

 

   

 

 今まで述べてきたような心境になって、職業を営む時、自然と奉仕の精神が溢れて来るのであります。奉仕の精神に立って成す職業は凡て聖職であります。そしてこのような心境に立って成す職業に供う勤労こそ眞に尊ぶべきものであります。パウロがテサロニケ第二の書で、福音を宣べ伝える者の態度を極めて具体的に述べているが、(テサロニケ第二、三・六~十六参照)凡ての職業人が、自己の職業を神に捧げて、神と偕になす職業、これが眞の職業であり、そのような自覚に立ち得た時の職業による労苦、苦痛は、神の慰めとなり、はげましとなって、そのような人の職業を通して、神はご自身の栄光を現すのです。そしてそのような人々によってなされる職業にふるる人々をも、神は救いに導かれるのであります。このように信仰に立って成す職業こそ眞の奉仕と云われるべきものであると思うのであります。

 

 「人の子がきたのも仕えられるためではなく仕えるためであって、多くの人のあがないとして、自分の生命を与えるためである。」(マタイ二〇・二八)