「家庭礼拝の手がかり/イエスの受難研究(前半)」(半田梅雄)

「家庭礼拝の手がかり/イエスの受難研究(前半)」半田梅雄

 

 これは、1974年8月に、半田梅雄兄が、夏期聖書特別研究集会で行なった聖書講話の前半です(水戸無教会誌第75号に掲載)。

 最初に本日の聖書をお読みします。マタイによる福音書26章47~56節です。

 

イエスがまだ話しておられると、12人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ、それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのときイエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ち掛かって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちは私を捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

 イエスの受難研究(前半)

 半田梅雄

 

 一 ユダの裏切について

 イスカリオテのユダが、裏切りをして、大祭司連や長老たちから派遣された大勢の捕縛者たちを伴って、イエスに近づいて来る。そこでイエスに接吻すれば、その人が間違いなくイエスであることが確認されて、イエスは直ちに捕縛される。そういう合図があらかじめ決められていた。この危機にのぞむイエスと弟子たちの大きな相違を昨夜来学んで来た。殊にナルドの香油のエピソードは、非常に深い意味を示してくれる。元来、ユダヤ人にとって頭に香油をそそがれることは、特別に神によって選ばれた王、救い主を意味した。弟子たちの眼には、マリヤの仕草が、単なるムダごとか、ぜいたくに見えた。しかし、すでに十字架への道を自覚しておられるイエスには、マリヤの愛の業が、父なる神によって聖別された者になされるはなむけと感じられたのである。ユダの反逆はこの事件の直後に決定的となる。地上のメシヤへの期待が、いかに当時のユダヤ人に強くあったか、イエスの尋常ならぬ力を見ている弟子たちが、イエスに一般のユダヤ人以上の期待をかけたとしても不思議ではなかったといい得るであろう。地上的、現世的救済に期待をかける弟子たちに、イエスは全く異なる方向を示される。期待が大きければ大きいだけ外れた時の失望は大きい。ユダは完全にイエスに失望する。その時サタンはユダの心を完ぺきに掴んだ。ユダの転絡は絶壁を駆け降りるような早さで、愛から憎しみへと変ってゆく。「人の子を売るその人は、ああかわいそうだ!生れなかった方がよっぽどしあわせであった。」(マタイ二六の24)とイエスは嘆かれる。愛しても、愛しても、逆く者を呼び戻すことは出来ない。結果的にユダは激しい後悔ののちに自殺をする。このどうにもならない不幸な役割の実演を、私たちは、他人ごととして見過すことが出来るだろうか。

 私たちが一人の人間として、一歩誤れば、ユダの道を歩む可能性がなくはない。ユダとイエスの決裂というより、ユダのイエスに対する決定的な敗北の行程を、私たちは生々しく実感し、息を呑む思いで見つめて来たのである。


 二、イエスの苦悩

 ゲッセマネの園におけるイエスの祈りが、ルカの筆によれば、血のしたたるような汗を流されつつなされたという。しかも一度ならず、二度、三度、その間眠りこけてしまう弟子たち。なぜそのような苦悶が、ゲッセマネでイエスを襲ったか、私共に、量り知れない深い意味が、そこに横わっているようである。

 本日学ぶ捕縛では、ゲッセマネの三度の祈りの後における極めて微妙な変化かも知れないが、私には何か、イエスが、その大きな慟哭を越えて、御自身に負わされた道筋を真直ぐに進んでゆかなければならないお覚悟をされたことが、このか所から読みとることができるように思う。

 先程、詩篇を読んで頂いたが、「私の神様、私の神様、なぜ私をお見棄てになりましたか」という十字架上での叫けびは、また再び慟哭と混迷の中にイエスを引きずり込んだのかも知れないが、少くも、二十六章四七節から五六節では、イエスは、御自身に負わされた十字架上での死の意味づけについて、神からつき離されたままの状態で、歩まざるを得ないということを、理解されておられたように思う。

 人間的ないい方をすれば、さわやかというか、ある激突的な状態を過ぎて、気ばったものいい、女々しい涙めいたものもなく、静かにむしろ決然と敵を迎える様が、眼に見えるようである。


 三、神の子の証明、避けがたい十字架への道

 ここで、イエスが「救い主」である。あるいは、「神の子」であるという意味について、一体何によって、それが証明されるかを考えてみたい。

 ゲッセマネの園における激しい慟哭と祈りを通して、ひとり十字架への道を突き進んでゆくイエスの姿は、誰の眼にもいたましいと映ずると思うが、それにもかかわらず、十字架は、どうしても避けることができない道筋であったのかどうか、そのへんが一番問題だろうと思う。逆な立場からいうと、イエスが「神の子」であるということを、十字架及びその後に起る復活を除いて、考えることができるかどうかである。もっと具体的にいえば、十字架と復活のないイエス伝によって、キリスト教が今日このように生き続けたかどうかである。

 はからずも、昨夜、宇野さんからお話があったように、イエスの時には、キリスト教はなかった。当時は、ユダヤ教のみがあり、そのユダヤ教の中に、公生涯としては、わずか二~三年(あるいは長くても四~五年といわれる)そのわずかな期間に、イエスが、異端的な形で、あるいは、新興宗教の小さな教祖的な立場で、活動した範囲、影響というものは、それ程大きくはなかったのではないか。

 だから、もし、十字架なしに、イエスが、単に道徳的な教師、倫理的意味の強い教祖俗にいう立派な人格としてだけの存在で、たとえユダヤの国の村々町々で、やや多くの人々に接し、語りかけ、天寿を完うして死んだとしても、その結果はどうだっただろうか。

 その人によって、果して、人類のすべてに関係ある人間の持つ底知れない罪、暗黒面が、神さまの前に明白にされることがあったであろうか。

 イエスの十字架の際、散り散りになった弟子たちが、イエスの復活昇天後にわかに強いものにされてゆく事実。このことは史実として疑う余地がない。彼らは、十字架と復活の事実から決定的な影響を受けたのであって、生前のイエスの教えのみで決定的に造り変えられたわけではない。彼らは、十字架と復活を眼のあたりにして、始めて、生前のイエスの教えの中身を明確に理解することができたのである。十字架と復活の光を通さない教えや戒めは、師の危急を見棄てて逃げる弱さしかなかったのである。

 小さな私にとっても、この十字架こそ、私の罪を明白にするためにどうしても必要であった。また、ゲッセマネにおける祈りの態度によって、イエスは本質的に神の子でありながら、現実的に徹底した人間であられた証拠と考えられる。人間の底の底にある罪。神と人間の離反関係を徹底的に見せつけてくれるものは、この僅かな数日間に起った神と人間との激突関係に外ならない。決して、イエスが、きまり文句のように、ただ神さまの御命令によって、淡々と十字架の上に追い上げられて、死んだのではない。人類の罪というものが、神さまの前に完全にえぐり出されて、はっきり見せつけられて、もうこれ以上罪というものの実態は、底がないという程神さまの前に明々白々にされるところに、この十字架処刑の深い意味があるのではないか。

 そこに、東洋における孔子や釈迦などに非常に高い人格的影響を受けておりながら、どうしてもそれだけでは、いま私共の魂の底にどす黒くとぐろを巻く罪を徹底的に認識し、それからの救いを得ることは出来ない。しかもそれが、観念としてならいざ知らず、歴史的事実の中で明らかにされることはないのではないか。釈迦や孔子が、非常に深い人生探究の導師であることはわかる。又それぞれが、大きな苦闘の後に、極めて高い世界観、人生観を打ち立てたことも否定しない。しかし、それだけでは、神と人間との決定的な出会いは起り得ないのではないか。どうしてもこれは、十字架という絶対絶命、引くに引けない状態を通して、始めて明らかにされることなのだと思う。「全世界をもうけても、命を損するのでは、その人になんの得があろう。」と、イエスも言われる。(マタイ八・36)

 

 もちろん、永遠の生命ということでイエスはこのことを仰言っておられるのだが、私共のこの肉体にある生命が、本当にもしここでなくなるならば、ここにいる友人たち、親兄弟が、どういう意味を持つだろうか。何といっても、私にとって、最後に残るものは、私自身がいまこうして生きているという事実そのものである。しかも私は、肉体が滅びるものであることを徹底的に知っている。私は、私の力、又私以外の人間の力をもってしては、私の肉体の生命を止めて置くことが絶体に出来ないことをも知っている。私は、生命がなぜ地球上に生れ出て来たかを知らない。私一個は単に偶然に生れ出た大きな生命の流れの泡沫に過ぎない のだろうか。イエスの生涯(それは十字架と復活まで含めて)は、私たちにこの生命の神秘について一さいを明らかにしてくれる。生命の意味と価値について、彼の死が、私たちの真の生であることを、彼の聖霊が私たちに教えるのである。