「コリントの信徒への第二の手紙」第5回(星野光利)

 7月25日に、今年8回目の集会が行われました。感染症対策ガイドラインに則って、慎重に行いました。

 聖書講解は、星野光利兄による「コリントの信徒への第二の手紙講解第5回」(讃美歌9番、158番/聖書 第二コリント3章1〜3節/司会 萩野谷芳子)です。

 星野兄は、コリントの信徒への第二の手紙を取り上げ、塚本虎二の「コリント後書講義」(軽井沢講演 皆川とし子筆記筆記、1936年)を引用しつつ講義をされました。

 コリント後書は、難解で分かりにくい書であると言われていますが、それは、この手紙を書いた時の、パウロの置かれた状況が分からないことに原因があります。その一方で、パウロの人間としての喜怒哀楽がはっきりと現れており、パウロという人間が良く分かるという面もあります。

 今回の講解では、3〜7章を取り上げて、塚本先生の講義録をもとに説明されました。

 塚本先生は、パウロが、コリントの信徒に対して「あなたたちはキリストの作品であって、私たちはただそのお手伝いをしただけだ」と語ったとされます。「キリストの作品だからこそ、キリストの命が存在している」のであり、この手伝いをした資格は、神から来たものであるとし、自分の使徒職が神によるものだと説明します。

 また、パウロは、「わたしは新しい契約(新約)の世話役になったけれども、文字(言葉)の世話役になったのではなく、霊の世話役になったのである。文字は殺し、霊は生かす。」と述べています。ここで言う「霊の働き」とは、人の命の根源であるイエス・キリストへと導く働きを指します。これは、神のみがその能力を所有しておられる故に、神の業です。

 塚本先生は、神の霊と聖書の関係を取り上げ、「わたしは聖書は神の霊をもって書かれたものと信じている。しかし、『こう書かれているからこう』というのはいけない。精神をもって書かれたのであるが、書かれたものは精神ではない。精神を表しても言葉になるとそれは死んだものである。言葉はどうでも取れる。言葉とはそう言うものである。」として、聖書解釈の難しさを指摘しています。

 そのため、聖書を学問的に熱心に研究したのですが、「しかしわたしに聖書が解ったのは、聖書を学問的に研究した結果ではなく、人生の悩みを通った時、初めて聖書が解ったような気がした。この時に霊によって聖書を読むとはどういうことか、自由に聖書を解釈するとはどういうことかが解った。」とされました。以上

 なお、Skypeによるライブ配信を行い、遠方の兄姉が参加して下さいました。ご希望の方には、集会配布資料、音声ファイルをお送りすることも出来ますので、「問い合わせ」のページから、メールでご連絡下さい。