「コリントの信徒への第二の手紙」第6回(星野光利)

 10月24日に、今年10回目の集会が行われました。感染症対策ガイドラインに則って、慎重に行いました。

 聖書講解は、星野光利兄による「コリントの信徒への第二の手紙講解第6回」(讃美歌355番、354番/聖書 第二コリント5章1〜5節/司会 菊池信生)です。

 星野兄は、コリントの信徒への第二の手紙を取り上げ、塚本虎二の「コリント後書講義」(軽井沢講演 皆川とし子筆記筆記、1936年)を引用しつつ講義をされました。

 コリント後書は、難解で分かりにくい書であると言われていますが、それは、この手紙を書いた時の、パウロの置かれた状況が分からないことに原因があります。その一方で、パウロの人間としての喜怒哀楽がはっきりと現れており、パウロという人間が良く分かるという面もあります。

 今回の講解では、5〜7章を取り上げて、塚本先生の講義録をもとに説明されました。

 ここで、第一にパウロは自己弁護をしています。もし、パウロが真実でないと言うならば、彼の言葉を通して福音をコリントの人々に伝えることは不可能となります。それでパウロは、懸命に自己の誠実を弁護するのです。

 パウロは、自分が真実の者であることの根源を、キリスト教徒の根源にまでさかのぼって告げています。パウロは、自分という存在は、イエス・キリストという存在と堅く結びついており、「わたし」というものは独立には存在しないのであると言うのです。自分は、キリストと共にこの世に対して死んでしまったのであって、利益・名誉とかこの世のことには、もはや関心がない。しかし、自分を駆り立てているものは存在し、それはキリストの愛だと言います。パウロは、キリストの愛に駆り立てられて、あらゆる苦難を耐え忍んで、キリストの福音を説き薦めているのです。

 第二には、パウロは使徒職に対する深い自覚を語っていますが、これは同時に使徒職に対する弁明でも有ります。それは「しかしわたし達は、この宝を土の器の中に持っている」(第二コリント4章7節)という短い言葉の中に表現されています。使徒職は尊く、モーセに比すべきではない。使徒は偉大な福音に仕え、福音を伝えているのだから。しかし、敵は宝を見ずに土の器を見て、パウロ自身を攻撃するのです。

 自分のことは、自分が一番よく知っている。福音が、腐った人間の中に入っている。そこから福音が出れば、それがわたしから出るのではなく、神から出ていることが分かる。それで良いではないか。自分の例を出してはいけないが、肉はだんだん腐れてしまうが、命はだんだんに延び、体が腐り果てたその時に、神が霊の体を下さる。この根本はキリストの十字架に救われた経験に基づくのです。

 「もし誰でも、キリストに結びついているならば、その人は新しい創造である。古いものは消え失せ、見よ、新しくなってしまっている。」(第二コリント5章17節)

 皆さん一人一人は、神による新しい創造物であることを知らなければならない。たしかに皆さんの体は土の器であって。汚れている。わたし達が理想とする体は、死後に神から頂くものであるから、わたし達が生きている限り、土の器はいつまでも土の器である。しかし、この土の器の中に神からの宝が入っている限り、わたし達は土の器の不完全を嘆くには及ばない。わたし達は神からの宝、イエス・キリストの福音に生きればよい。私たちの内なる命はもう新しくなってしまっているのだから。以上