カテゴリ:聖書講解



聖書 ヘブライ人への手紙4章1~13節 賛美歌 67番 518番/前回は、3章の途中で終わってしまったので、補足します。3 章7節以降は、神の民の安息がテーマとなっており、同じ言葉が何度も繰り返されています。「今日」「(神の)安息」「(心を)頑なに」「反抗」「不従順」などです。イスラエルの民は、神の業を見たにもかかわらず、神の言葉に聞き従おうとせず、不従順となって神に反抗しました。ここで言う不従順や反抗は、反乱といった強い意味を持っています。その結果、モーセを含めて、エジプトを出たイスラエルの民は、安息の地カナンに入れず、ヨシュアら、次の世代しか入ることが許されませんでした。 4章1~13節には、神の民の安息を失わないように注意すべきだという趣旨が述べられていますが、これは、イエスを信じることによる天的な意味での安息を指します。イスラエルの民は、安息の地カナンに入りましたが、神の安息は、それだけでは満たされません。天的な意味での神の安息を受けるため、私たちの弱さを知っておられる神に感謝しつつ、不信仰に陥らないように注意することが、今、求められているのです。
イザヤ書40章1〜11節。賛美歌217番、514番。/740年以降イザヤは神の召しにより、神の御旨を伝える預言者として忠実に預言を続けましたが、ユダの民はイザヤの伝える「神への罪のもたらす結果」について深刻に受け止めませんでした。アッシリアの支配下で多くの財や貢物を取られたが、国が滅びるという決定的な試練に遭遇せずに乗り越えてきました。イザヤの預言の最後と見られる年、701年アッシリア軍がエルサレムを包囲、落城の危険が目前に迫ったが、神の憐みで危機一髪を免れました。この出来事にもかかわらず、ユダの国民は、自分たちの神が「神に立ち帰れ」「正義と公平を行え」と預言者を通して命じた神様の要求に背いたことへの審きとしてアッシリアを遣わしたと思わなかったのです。そのため「神にのみ依り頼む」純粋の信仰に立ち帰りませんでした。こうして預言者イザヤの努力は空しく終わりましたが、神はすっかり見通しておられ、イザヤの預言がすぐ実現するのではなく、その後に実現していくように準備されたのです。100年が経過して世界情勢は大きく変わり、アッシリアが倒れ、バビロンがとって代わり、更にペルシャが台頭していきました。
ガラテヤ書2章1〜10節より テトスの割礼問題  彼は異邦人であった。そして割礼を受けずに、ただキリストを信じただけでキリスト信者となったといっていた。これは許すべきことであるかと、エルサレム教会の多くの信者は思った。パウロはもちろん割礼を受ける必要はないと言ったが、使徒教会の多数は、必要であると言った。こうしてパウロ一行のエルサレム行きは、争いを起こす原因となった。そして平和を愛するパウロは、この些細な割礼の一事を譲るべきではないか。譲れば万事が平和である。全世界に単一の福音が伝えられるのである。パウロともあろう者は、この際、度量を示して、テトスに割礼を受けさせて、エルサレム教会の信用承認を得るべきではないか。他の人ならば、この際譲ったであろう。しかしパウロは譲らなかった。これは福音の大事である。「人の義とされるのは信仰による。律法の行いによらない」というのが、パウロの説いた福音の根本である。割礼というような、律法の行いは不要であると説いたのです。